荀子を読んでいて3

今日、荀子を読んでいて、改めて荀況の賢さを感じて鳥肌が立ってしまった。

 当たり前のことを当たり前にさらっと言ってしまうところがすごい。そして、彼こそ、やはりまごうことなき韓非の師であるとも、また思った。ただ、荀子の欠点は、難しいことだ。出てくる単語、漢字が難しい。日本で常用漢字でないことは当たり前なのだけど、恐らく当時の当所でも常用漢字でなかったであろう言葉が多いように感じられる。

 具体的なこととしては、致士(士を招く)に書かれていることで、「魚は淵が深ければ過ごしやすく、鳥獣は山林が茂れば過ごしやすい、士(立派な見識の人)は礼義があれば過ごしやすい。だから、国に礼と義が至れば、国に士が集まる。」というところだ。なるほど、間違いない。当たり前すぎて気がつかないほど当たり前のことだ。そして、これは組織を運営する上でとても重要なことだと思った。まあ、これができれば、王道を通れるということで、とても難しいことであろうけど、詐術が蔓延しているところには詐欺師とペテン師しか集まらない。正直で、しかも賢い人は、そのくだらなさに愕然として、すぐにそこを去るだろう。そして、詐欺やペテンの蔓延する社会が没落するのは目に見え、正直と賢行が明らかに進む社会は発展する。当たり前すぎるほど当たり前のことだ。だが、なかなか気が付けることではない。それをいとも簡単に、しかも、上のような素晴らしいたとえまで付けて言っているのだ。

 もうひとつは、良法があってもうまく治まらないということはあるが、君子(立派な見識を持った地位有る人)がいてうまく治まらないということはない。というところだ。然り、その通り。と思った。法は術であり、良法とは例えばF1カーのような高性能な車である。いかに車が高性能でも、それを操作する人が、それに見合った人でなければ、その車は単なる暴走車に過ぎない。逆に低性能の軽自動車でも、乗る人が乗ればそれなりの走りをするだろう。当たり前のことなのだけど、これを明らかに知ることは難しい。

 もうすぐ、岩波文庫版の上巻を読み終わるが、巻末の議兵のところも大変興味深い。また、内容として、孫子の兵法をある意味で凌いでいる。この荀子の議兵篇を熟知し、実行に移すことができるなら、孫子の兵法は必要ない。王道に兵法などないし、それを使うまでもない。という最強の感が漂っている。ただし、孫子に書かれていることと全く矛盾していないところも面白い。つまり、それは、孫子の冒頭の「一に曰く道」ということについて、述べているのである。兵法とは所詮次善であるし、「兵とは国の大事なり」という孫子の考えとも全く矛盾していない。

 世の中には賢い人がいたもんだ。と、改めて思った。