集合知とは何か - ネット時代の「知」のゆくえ を読んで

良い本と思う。

「ネットはこうなる!」みたいなことを言って、ネットで活躍している言論家みたいな人は結構いる。しかし、そういった人たちは、ただ単にこういった著書の内容を読みこなす力があり、それを理解し、さらにそれを分かりやすくして発信する能力があるに過ぎないのだなぁと思った。

内容としては、集合知、例えば蜂は司令塔が居なくても巣にとって正しい選択をする、その集合知がネットを通して人間の世界でも、形成されつつあるのではないか、というところから始まる。そして、この集合知を、完全民主主義として使えないか、というような社会的なことに話が展開されていくと思っていると、少し話の様相が変わってくる。

というのも、この著者の方は、実は、そういった社会学の専門家でもなく、ネット評論家みないな人でもなく、コンピューター理論の研究者なのだ。それで、話は途中から様相をすっかり変えて、システム理論に突入していく。しかも、このシステム理論は、オートポイエーシスやネオサイバネティックスなどといった、学問的にも最先端の理論であり、読み応えとその内容の難解さは抜群である。

そのシステム理論を簡単に説明するためには、コンピューターと生命の根本的違いから入らなけれればならない。

コンピューターとは、単なる計算機であり、開放システム(何かを入力すれば必ず毎回同じ答えが帰ってくるもの)である。また、コンピューターは「一次観察」によって、そのシステムの全てを説明することができる。つまり、AのときはB、CのときはD、RのときはZといったような、結果だけを観察していれば、その全貌を明らかにすることができるのである。こういったものが、ネットを含めたコンピューターの知と言うことができる。また、これは客観知・天下り知とも言える。簡単に言ってしまえば、現在の日本の詰め込み教育のことである。

これに対して、人の知とは、複雑系であり、閉鎖システム(何かを入力しても同じ答えが帰ってくるとは限らないもの)である。また、人の知は「二次観察」によってしか、そのシステムの全てを説明することができない。つまり、人の知は、観察による経験で、どんどんとアウトプットを変更していく、だから、どのように物事を観察しているのか、ということを観察しないと、この人の知のシステム全貌を把握することはできないわけだ。だから、人の知とは主観知であり、クオリア(その人がそれと認識する特有の質感)を必ず伴うことになる。

それで、当然に、後者の方が難しいわけで、紙幅の多くはこのことに費やされている。詳しく述べているときりがないが、ベナール対流(菜種油を加熱すると必ず六角形ができる現象)を引き合いに出して、小さい構成要素が大きな場の動きを創発(emerge)することなども書かれている。

また、五章には非常に興味深い理論が書かれている。簡単に言うと、「構成要素が、閉鎖システムがある方が、唯一のリーダーが出現しやすい」というものである。これについては、非常に興味深いので、また別の著書(「魂と体・脳」西川アサキ)でも調べてみたいと思っている。

こういった部品の理論も、まごうことなき最先端で非常に勉強になるのだが、この本で著者の方が伝えたかったことも、非常に善いものと思う。

つまりそれは、「コンピューターや機械は、人にはなれない」ということであり、あくまでもコンピューターや機械は、人間の主観知のために利用されるべきである、ということである。まあ、そこらのネット評論家が言っていることが、いかに当てにならぬ、風説邪説というものか、ということがよくわかるので、是非読んでいただきたい。