3.荀子 現代語訳 勧学第一 三章

三章

 土を積んで山を成せば風雨が起こり、水の折り重ねて深い淵を成せば蛟竜(こうりょう)が生まれ、積善の徳を成せば神明が自得されて聖心が備わる。だから、半歩でも積むことをしなければ千里に至ることはできず、小さな流れでも集まらなければ大河や海はできない。名馬でも一躍で十歩進むことはできず、駄馬でも十駕すれば名馬に及ぶことができる。

 功はやめないことにある。(●功は舎かざるにあり)

 切りかけにして放っておけば朽ちた木さえ倒すことはできず、切ることをやめないでいればダイヤモンドすら掘り削ることができる。

 ミミズには爪や牙のような鋭いものや屈強な体躯もないけれど、土を食べて地下の水を飲むことができるのは、心を用いるところが一つに向かっているからである。(心の用うるところの一なればなり)

 カニは八つ足があってハサミも二つあるのに、自分で穴を掘れないで蛇やウミヘビの穴でなければ自分の住処を確保できないのは、心を用いることがさわがしいからである。

 だから冥冥の(はっきりと表に出ない)志なき者には昭昭の(はっきりとして明らかな)名はなく、惛惛の事(地道で地味なこと)がない者には赫赫の功(驚くべき功)はない。(●冥冥の志なきものは昭昭の名なく、惛惛の事なきものは赫赫の功なし)

 二つ以上の道を行ったり来たりしていれば到着することはできないし、両君に仕えている者は人に容れられるということがない。目も二つの物事を同時に見なければ明らかとなり、耳も二つのことを同時に聞かなければ聡くなる。(●衢の道を行く者は至らず、両君に仕うる者は容れられず)

 ツチノコは足がないのに飛び跳ね、太ったネズミは足があるのに窮することとなる。

 詩経の曹風・尺鳩篇に「尺鳩が桑に巣をかけた、ヒナは七匹、だけど平等にエサをやる、立派な君子もその儀は一つ、その儀が一つで心は結ばれる」とある。

 だから君子は心を一つの事に結びつけるのだ。(●君子は一に結ぶなり)


まとめ
http://d.hatena.ne.jp/keigossa/20130104/1357283885


解説及び感想

■最初に小さなことを積むべきことを述べ、次に、積むためには続けるべきことを明らかにし、そうして、続けるためには心を一つの事に集中させるべきことを述べている。

■ミミズの例えは確か荘子にあった気がする。ものごとは明らかにしないことによって明らかになるという考え方は、老子道教思想に近いとも言える。ただし、私の思うところによれば、こういった考え方はもともと儒学にもある。儒学と道学の違うところは、儒学は受けるべきことは受けるというのに対して、道学では受けるべきものさえ受けないということではなかろうか。後に出てくるが、荀子は富むことや名誉を受けることを「これ人の好むものなり」としてはっきりと肯定している。