4.荀子 勧学第一 四・五章

四章

 むかし、コ巴という名人が瑟をかき鳴らすと、深いところにいる魚さえ出てきてこれを聴き、伯牙という名人が琴をかき鳴らせば、馬車につながれた馬でさえもくつろいで草を食べたという。

 だから声は小さくても聞こえないということはなく、行いは隠れていることでも表に出ないということはない。(●声は小なるも聞こえざることはなく、行は隠れたるも形われざることなし)

 名玉が山に在れば草木も潤い、名珠が出る淵では崖がくずれることもない。

 善を為して積もうではないか、どうしてそれが聞こえないということがあろうか。(●善を為して積まんか、なんぞ聞こえざる者有らん)

五章

 学はどこから始まってどこに終わる。その形式的なこと(数)で言えば、経典を暗唱することに始まって礼を読むことに終わる。その心の位(義)は、士であることに始まって聖人であることに終わる。本当に積んで勉励し、長く続けるならばその領域まで入ることもできよう。

 学は死ぬこととなってそうしてやっと止めることができるのである。(●学は没するに至りて而る後に止むべきなり)

 だから学の形式的なことには限りがあるけれども、その義に関しては少しも離れてはならない。これを為すのが人であり、これを捨てるのが禽獣である。

 だから、書経は政治の記録であって、詩経は中声の止まるところ、礼は法の大分であると同時に類を網羅したものなのである。だから、学は礼に至って止まる。(●学は礼に至りて止まる)このことをこそ道徳の極みという。

 礼の敬文と楽の中和と詩書の博きと春秋の微であるのと、これらを学んだら天地の間にあるものが尽くされる。


まとめ
http://d.hatena.ne.jp/keigossa/20130104/1357283885



解説及び感想

■前章の少しずつでも続けることの意を継いで、微かなことでも明らかな功があることを述べている。こうして、学問という概念の輪郭や効用といったものが明らかにされたので、学問の具体的な概要を述べている。

■大学伝六章より「いわゆるその意を誠にすとは、自ら欺くなきなり。悪臭をにくむがごとく、好色を好むがごとし。これをこれ自ら謙(こころよく)すという。故に君子はその独りを慎むなり。小人間居して不善を為す。至らざるところなし。君子を見てのち厭然として、その不善をおおいてその善を著す。人の己を視ること、その肺肝を見るがごとく然り。すなわち何の益かあらん。これを中に誠あればそとに形(あらわ)るという。故に君子は必ずその独りを慎むなり」(意を誠にするとは、自分を欺かないことである。悪臭を嫌い好色を好むかのように、正直でいることである。このように裏表がないことを自らを謙す(本来の自分を偽らず人から羨望を得ようとしないこと)という。だから、君子は独りでいるときも行動を慎む。つまらない人は、一人でいると、誰も見ていないからとどんな不善でも平気でする。しかし、君子が誠意を尽くして善であることを見て、自分に嫌気がさし、不善の部分は隠して表だけでも善であろうとするものだ。そうではあるけれど、実際、隠れて不善をすればそれは何かしらの痕跡を残すのであり、どれだけ隠しても見透かされてしまう。これは、ちょうど人間ならば肺や肝臓があるのは当たり前だけど、肺や肝臓があると看破されることと同じことだ。だから君子は必ず独りで居る時もその行動を慎むのである。

論語泰伯第八より「曾子曰く、士は以て弘毅ならざるべからず。任重くして道遠し。仁以て己が任となす。亦重からずや。死して後己(や)む。亦遠からずや」(士は、心が広くて強くなくてはならない。なぜなら、その背負うものは重くて、行かなければならない道は遠いのだから。仁という荷を自分に背負うこと、これはまた重いことではないではないか。死んでやっとその荷を下ろせること、これはまた遠いことではないではないか。)http://d.hatena.ne.jp/keigossa/20120312

■ここでは易経が挙げられていない。どうしてだろうか、いろいろな説が考えられる。1.易経自体相当貴重な書物だった。2.荀子の天論の姿勢から見れるように、そういった不可知的なものは敢えて挙げなかった。3.易はあまりにも難しいから敢えて挙げなかった。実際はこれらの複合と思う。荀子の天論は、天の神秘的な部分を排除したことで有名だけど、逆にそれこそ易経に通達していなければできないことであると思う。あと、当時学問をしたいという人の中には、易経だけはどうしても手に入らないという人も多くいたであろう。そういった時代背景からもここには挙げなかったのではないか。