2.荀子 現代語訳 勧学第一 二章

二章


 私はかつて、一日中考え事をしたことがあるけれど、それはほんの少しだけの学ぶことにも及ばなかった。私はかつて、つま先で立って遠くを眺めようとしたのだけど、高いところに登って見渡すことには及ばなかった。

 高いところから手招きをすると腕の長さが伸びるわけではない、だけどそれは遠くの人からも見える。風下に向かって人を呼ぶとき声自体が大きくなるわけではない、だけどそれははっきりと聞こえる。

 車に乗る人は足に直接の工夫をするわけではない、だけど千里の道を行くことができる。船に乗る人は魚のような体になるわけでない、だけど大河や海を渡ることができる。

 君子も生まれつきに異なるわけではない、善く物を借りて利用するのである。(●君子は生まれつき異なるにあらず、善く物に仮るなり。)


 南方に、名を蒙鳩という鳥がいる。この鳥は、羽で巣を作り、さらに髪の毛を編んで補強して、この巣を葦(アシ:水辺に生える背の高い草)の先につなげる。しかし、風が吹いて葦が折れれば、卵は割れて子は死んでしまう。これは巣の作りが悪いのでなくて、つなぐところのものがそうさせるのである。

 西方に、名を射干という木がある。茎の長さはせいぜい10センチほどであるのだけど、高山の上に生えれば深淵を臨む。これは木の茎が長いことによるのではなくて、立つところによってそうなるのである。

 つる草も麻のようなまっすぐに伸びる植物の間に生えれば、手助けせずともまっすぐ上に伸び、白い砂でも泥と在れば泥とともに黒くなる。

 蘭の根は香料となるのだけど、尿にひたせば君子も近付かないし庶民が身に付けることもない。これは、それ自体の質が美しくないというわけではない、ひたすところのものがそうさせるのである。

 だから、君子が居る所を選んで必ず立派な士に就くのは、よこしまを防いで中正に近付こうとするからである。(●君子の必ず郷を択び遊ぶには必ず士に就くは、邪僻を防いで中正に近づく所以なり)


 何かが起きるには必ず始まりというものがあり、栄辱が訪れるときは必ずその徳に見合ったものとなる。

 肉は腐ると虫が湧いて、魚は腐るとハエがたかり、怠慢して身を忘れると禍災が起こる。

 固くて太い木は切られて柱となり、細くて柔らかい木は切られて束ねられる。邪と汚れが身に在るのなら怨みを受ける原因となる。

 薪を一面に敷いて火をつければ、火は乾いた所へと広がっていき、地面を一様に平たくすれば水は湿った所へと集まる。草木は種類ごとに生えて、鳥や獣も同じ種類で群れをなす、物はその類(たぐい)に従うのだ。

 こういったことだから、的がかけられれば矢が飛んできて、森林が生い茂れば斧が入り、樹が木陰を作れば小鳥たちも憩い、酢が酸味を増せばブヨが集まる。

 だから、言えば禍を招くことがあるし、行えば恥辱を招くこともある。君子よ、その立つ所を慎みなさい。(●言えば禍を召くこと有り行えば辱を招くこと有り。君子よ其の立つ所を慎まんか)


まとめ
http://d.hatena.ne.jp/keigossa/20130104/1357283885


解説及び感想

■一では術の用途を三方向から説いている。術:手段とは、君子が借りて利用するもの:学問のことである。見聞見識という意味での学問・人との関わりでの学問・実益に役立てるという意味での学問▼論語衛霊公第十五より「吾かつて終日食はず、終夜寝ねず、以て思へり。益なし。学ぶに如かざるなり。(私はかつて一日中何も食べず、寝ることもせず一人で考えたことがあった。しかし、何も得るものがなかった。考えることは学ぶことに到底及ばない。)」▼論語為政第二より「学んで思わざればすなわち暗く、思うて学ばざればすなわち殆(あや)うし。(学んでそれを受け入れるだけで考えないのならば、仕組みが分からないで表面だけで満足することとなり、それは明を暗ますことになる。逆に考えてばかりで学んでそれを矯正しないならば、間違った方向に突き進み危うさがある。」

■二では君子が自分の居るところを選ぶ重要性を説く。▼論語里仁第四より「子曰く、里は仁を美と為す。択んで仁に居らずんば、いずくんぞ知とするを得ん。(里は仁であることを美しいとする。択んで仁のある里に居ないのならば、どうして知者とすることができようか。)▼当時の「遊ぶ」とは遠くに出掛けるという意味だったようで、孟子にはこういった話もある。(内容は記憶のため少し曖昧)あるとき、孟子が外交官として他国に赴いたとき、そこの大臣が孟子を自分の家で寝泊まりさせようとした。しかし、孟子はこれを断って、もっと下位の役人の家に寝泊まりすることとした。それをいぶかしく思った弟子が「先生はどうして大臣のお誘いを断ったのでしょうか、失礼にあたるのではないでしょうか」と尋ねてみた。すると、孟子は「あの大臣が悪いというわけではない。君子の礼には、どこかでしばらく滞在させてもらうような時には、その近辺で一番の士のところに滞在させてもらうよう頼むということになっている。この家の主人は確かに位は低いけれど、その徳の噂は広く隣国までも及んでいる。だから、ここにお願いに来て、快諾してくださったので寝泊まりさせていただいているのだ」

■三では因果の法則:原因と結果の法則:ものごとの因果関係、について述べている。そして、徳に悪い方を挙げて、どのような些細な言葉・行動・心持でも、自分に禍災を及ぼす可能性を述べて、それらを慎むべきこと:学ぶべきことを説いている。▼論語為政第二「子張、録をもとむるを学ぶ。子曰く、多くを聞きて疑はしきを欠き、慎んでその余を言えばすなわちとがめ寡(すく)なし。多くを見て殆きを欠き、慎んでその余を行えばすなわち悔寡なし。言とがめ寡なく、行ひ悔寡ければ、録其の中に在り。(子張が給料をもらうための学問をしていた。孔子はそれを見て、「多くのことを聞いて、そのうちで疑わしいことは言わないようにし、慎重に選んで疑わしくないことだけを言うのならば、咎められることはない。多くのことを見て、そのうちで危険に陥る可能性のあることや確たる見込みが立たないことはしないようにし、その中でも慎重に選んで危険に陥る可能性のないことや確たる見込みの立つことをするのならば、後悔することはない。言葉がとがめられることなく、行いに後悔することがないならば、給料はその中に自ずと生じてくる。」