65.学問のすすめ 現代語訳 第十五編 第四段落-後

 今、少しだけ事を高尚にして、宗教のことについて述べてみよう。

 四百年前に西洋に親鸞上人が生まれて、日本にマルチン・ルーザ(マルティン・ルター)が生まれていたとする。上人は西洋に行われていた仏法を変革して浄土真宗を広め、ルーザは日本のローマ宗教に敵対してプロテスタントの教えを開いていたとしたら、論者はこれを評価してこう言うだろう。

 宗教の最も重要な点は衆生済度であって人を殺すことでない。かりにもこの点を誤るとあとは目を当てることもできなくなる。西洋の親鸞上人はよくこのことを実行し、野宿して石を枕にして、千辛万苦、生涯の力を尽くして遂にその国の宗教を改革し、今日に至っては全国大半の人民を教化した。その教化の広大なことはこのようなものであるのだけど、上人の死後、その門徒の者が、宗教の事について他宗の人を殺したこともなく殺されたこともないのは、もっぱら宗徳で人を化したと言うべきものである。

 顧みて日本の有様を見てみれば、ルーザの死後、宗教のために日本の人民を殺し日本の国財を費やし、戦争を起こして国を滅ぼしたような禍(わざわい)は、筆で書くことも、口で語ることもできないほど悲惨なものである。なんと殺伐としたものだ、日本人というものは、衆生済度の教えでもって生霊を地獄に陥れ、敵を愛する教えに従って無罪の同類を屠り、今日になってその足跡を問うてみれば、ルーザの新教はまだ日本人民の半分も化することができていない。

 東西の宗教が、その趣を異にすることはこのようなものである。私はこのことに疑いを入れて既に日は久しいのだけど、まだ、その原因の確かなものを得ていない。個人的な考えでは、日本のキリスト教も、西洋の仏法も、その性質は同じであるのだけど、野蛮な国土で行われれば当然殺伐の気を促し、文明の国で行われれば当然温厚の雰囲気を作り出してこのような結果になるのだろうか。それとも、東方のキリスト教と西方の仏教とは最初からその元素が違うことによってそうなるのだろうか。はたまた、改革の始祖である日本のルーザと西洋の親鸞上人とその徳義に優劣があってそうなったのだろうか。浅はかな考えで推測してはならない、ただ後世の博識家の確かな説を待つのみである。


まとめ
http://d.hatena.ne.jp/keigossa/20121007/1349584536


感想及び考察

■この部分については、かなり事実をごちゃごちゃに混ぜているように思われる。皮肉や何かを込めてそのようにしていると思うのだけど、気になる方は、是非ご自分でこの部分の歴史について詳しく調べてみていただきたい。