63.学問のすすめ 現代語訳 十五編 第四段落-前

第四段落

 東西の人民、風俗は異なり情意を別にし、数千百年の長い間、おのおのその国土に行われた習慣については、たとえ利害の明らかなものであっても、すぐに彼を真似してはならない。ましてや、その利害がまだはっきりしていないものについて、すぐに真似をしていいはずがない。これを採用しようとするには、千思万慮歳月を積んで、そうしてやっとその性質を明らかにして取捨を判断しなければならない。

 そうであるのに、最近の世の中の有様を見ると、中人以上の改革者流や、開化先生と言った輩は、口を開けると西洋文明の美を称して、一人がこれを唱えると万人がこれに和し、およそ知識道徳の教えから治国、経済、衣食住の細かいことに至るまでも、みな全て西洋の風を慕ってこれにならおうとばかりする。西洋の事情についてその一般のことを知らない者が、ただひたすら旧物を廃棄してただ新しいものを求めているかのようである。

 なんぞ、この事物を信じること軽軽にして、またこれを疑うこと粗忽であることか。西洋の文明が我が国より数段階上であるとはいっても、決してその文明は十全というものではない。その欠点を数えてみるときりがない程である。彼らの風俗がことごとく美であって全てを信じていいはずがなく、我らの習慣がことごとく醜くて全て疑っていいはずがない。

 たとえばここに一少年が居たとする。彼が、学者先生に接してこの先生に心酔して、先生の真似をしようと心に決めて、本を買って文房具をそろえて、日夜机に向かって勉強するようなことは咎めるべきことではない。これは美事と言うべきである。そうなのだけど、この少年が先生の真似をする余りに、先生が世間話にふけって朝寝する癖まで学んでしまい、遂に体の健康を害するようなことがあったのなら、これは智者と言われようか。もっとも、この少年は先生を見て十全の学者と思いこみ、その行いの得失を考えずに、皆全て真似しようとし、そうしてかえってこの不幸に陥ってしまったのである。

 シナのことわざに、「西施の顰に倣う」(西施という美人には胸が痛くなる病があって、胸をおさえながら眉をひそめて歩くことがあった。この姿が美しいのを見た村の女がこの胸をおさえて眉をひそめて歩くのを真似したという話)というのがある。美人が眉をひそめるのにはそこに美人ならではの趣があるから、これを真似たいと思うことはさほど咎めるべきことではないのだけど、学者の朝寝に何の趣があるだろうか。朝寝はただの朝寝であって怠惰不養生の悪事である。人を慕うあまりにその悪事まで真似てしまうとは笑うべきことでも甚だしいものではないか。

 けれども、今の世間の改革者流にはこの少年のような輩が非常に多い。仮に今、東西の風俗習慣について、開化先生の評論に任せ、その評論の言葉を想像してここに記してみよう。


まとめ
http://d.hatena.ne.jp/keigossa/20121007/1349584536


感想及び考察

明治維新の旧物廃棄への批判であろう。私の知るところによると、昔は、寺と神社が同じところにあって、神仏融合というような信仰形態が主だったらしい。(事実うちの家の氏子神社は寺と同じ場所にある)しかし、神道を強制することによって、天皇を崇拝させるため、そういった場所が多く取りつぶされたらしい。他にも、城とかを壊したという話は社会でも習った気がする。あと、僧侶(坊さん)は妻帯が許されていなかったのだけど、これも明治維新の時に許されることとなったらしい。このような感じで、明治維新には、日本の伝統を多く無意味に破壊し、日本の文化を改悪したという側面もある。