64.学問のすすめ 現代語訳 十五編 第四段落-中

 西洋人は毎日風呂に入るけど、日本人はわずかに月に一回か二回しか風呂に入らない、開化先生はこれを評価して言うだろう、文明開化の人民はよく風呂に入って皮膚の蒸発を促し、そういして衛生の法を守っているのだけど、不文の日本人はこの理を知っていないと。

 日本人は寝床に尿瓶(しびん)を置いてこれに小便をためて、または便所から出ても手を洗わずに、西洋人は夜中でもトイレまで行って、どんな事故があっても必ず手を洗う習慣であるからには、論者はこれを評してこう言うだろう。開化の人は清潔を貴ぶ習慣があって不開化の人民は不潔がどんなものであるかさえ知らず、子供が知識もなくて不潔をまきまえていないのと同じであり、こういった人民であっても次第に進んで文明の域に入ってこれば、ついには西洋の美風というものを真似るであろうと。

 西洋人は、鼻汁をぬぐうとき一回ごとに紙を使ってすぐにこれを捨てて、日本人は紙でなくて布を使い、この布も洗濯してまた使う習慣であるからには、論者はとんちをめぐらし、この些細なことを経済論にまで広めてこう言うであろう。資本に乏しい国では、そこに住む人民も知らず知らずに節約の道に進むことがあり、日本全国の人民が西洋人のように鼻紙を使うようになるのなら、その国財のいくらかを消費することもできるのに、よくその不潔なことを我慢して布を代用するのは、資本が乏しいことによって仕方なく節約の道に赴いているのだと。

 日本の婦人がその耳に金環を付けて小腹を束縛して衣装を飾ることがあるのならば、論者は医学的見解を持ち出し、ひんしゅくしてこう言うだろう。甚だしいな不開化の人は、理を弁えて自然に従うことを知らないばかりでなくて、ことさらに肉体を傷つけて耳に荷物を付け、婦人の体で最も大事な部分である小腹を抑えつけて蜂の腰のようにして、妊娠の機会を妨げて出産の危険を増し、その禍の小さいものでは一家の不幸を呼び込み、大きなものでは人口が増えるための源を害していると。

 西洋人は家の内外にカギを使うことが少なくて、旅をするときは人足を雇って荷物を持たせ、その旅路では確かな錠前というものはないのだけど物を盗まれると言うことはなく、大工左官などのような職人に仕事を請け負ってもらうときは契約書も密なものを用いることもなくて、後になってから裁判沙汰になるようなことも少ないのだけど、

 日本人は、家の中の一室にまで締め切りを作って手元の箱にまでカギを付けて、請負仕事の契約書は一字一句を争って紙に記しても、それでもなお、ものは盗まれて、違約だと言って裁判沙汰になるようなことが多いのであるから、論者はまた嘆息してこう言うだろう。

 ありがたいものだキリスト聖教は、そして気の毒なのはパガン外教の人民、日本の人民はあたかも盗賊と雑居しているかのようで、これをかの西洋諸国の自由正直の風俗に比べるならば全く話にならなくて、実に聖教の教えがある国こそ落し物も盗まれないと。

 日本人がたばこを噛んで巻煙草をふかし、西洋人がキセルを使っているのなら、日本人は器械の術に乏しくてまだキセルすら発明されていないと言うだろう。日本人が靴を使って西洋人が下駄を履いているのなら、日本人は足の指の使い方も知らんのだと言うだろう。

 味噌も舶来品だったならこんな軽蔑されないだろう。豆腐も西洋人のテーブルに登れば、もっと注目されるだろう。うなぎのかば焼きや茶わん蒸しなどは、世界第一、とびきりの美味として評判になることだろう。

 こういったことを挙げていたら実にキリがない程である。


まとめ
http://d.hatena.ne.jp/keigossa/20121007/1349584536


感想及び考察

■途中から、日本と西洋が逆転されている。要は、屁理屈でどうにでも言えるということが言いたかったのだろう。というか、福沢自身、笑いながら愉快にこの部分を書いていたように思われた。

■私が思うに、毎日風呂に入るのは贅沢と思う。ティッシュを使うのは無駄使い。手を洗えという洗脳も「清潔病」だと思う。まあ、みんな洗脳されてしまっているから、私の主義主張を貫き通すわけにも行かないが。ただ、私は冬は寒いので一日おきにしか風呂に入りたいと思わないのだけど、それを大学時代に部活の後輩に話したら、「きたないっすよー」とか言われて、私がすかさず「風呂は毎日入らんくても死なん」と答えたら、「そういう問題じゃないですよー」とか言っていた後輩が、一年後に冬場は一日おきにしか風呂に入らなくっていたという事実だけはここで主張しておきたい。

■西洋個人主義というものがどんなものか、また、そいうった個人主義の感覚がそもそも日本には無かったことがよくわかる。現代では、ほとんど個人主義の方に向かったということだろう。