15.福沢諭吉 学問のすすめ 現代語訳 三篇 第五・六・七段落

第五段落

第二条 内に居て独立の地位を得ることができないものは、外に在って外国人と接するときもまた、独立の権義を発揮することはできない。

 独立の気力がない人は必ず人に頼る、人に頼る人は必ず人を恐れる、そして人を恐れる人は必ず人に諂(へつら)うものである。常に人を恐れて人に諂う人は次第にこれに慣れて、そのつらの皮は鉄のようになり、恥じるべきことをも恥じず、論ずべきことをも論じず、人を見ればただ腰を屈するだけである。いわゆる習い性とはこのことで、慣れて身についてしまったことは簡単には改めることはできない。

 例えば、現在は平民にも名字を名乗ることと馬に乗ることが許され、裁判所の体裁も改まって、表向きは士族と同等のようであるけれども、その習慣はいまだ何も変わっていない。平民の根性は依然としてもとの平民と異ならず、言語も下品で応接もイマイチ、目上の人の前では一言半句の理屈を言うこともできず、立てと言えば立ち、舞えと言えば舞い、その従順であることは、やせた飼い犬のようである。実に無気無力の鉄面皮と言える。

 昔鎖国の時代に旧幕府のような窮屈な政治を行う時代もあった。けれども、これは、人民に気力がないのもその政治に差支えがあるばかりか、かえって便利であったからである。そのために、ことさらに国民を無智に陥れ、無理に対して従順になるようにすることが、役人の得意とすることになっていた。しかし、現在外国と交わるようになってから、このことによる大いなる弊害が出ることとなった。

 例えば、田舎の商人などが、内心は恐れながらも外国の交易に志して横浜に来るようなことがあれば、最初に外国人の骨格を見て驚き、金の多いのを見て驚き、商館が大きいのを見て驚き、蒸気船が速いのを見て驚き、もはや既に肝をつぶして、なんとかこの外国人に近付いて取引するに及んでは、その駆け引きのするどさに驚き、または無理な理屈を言われればただ驚くだけでなくて、その威力にビビりあがってしまい、無理と知りながら大損害受けてさらに恥辱までをも被ることがある。 これは一人の損失ではない、一国の損失である。そして、一人の恥辱ではない、一国の恥辱である。

 実に馬鹿らしいことであるようだけれども、先祖代々独立の気を吸っていない町人根性、武士には苦しめられ、裁判所には叱られ、最も身分の軽い足軽にあっても旦那さまと崇める魂は腹の底まで腐れ付き、一朝一夕に洗うことはできない。このような臆病神の手下どもが、かの大胆不敵な外国人に会って、肝を抜かれるのは無理からぬことである。これが即ち、内に居て独立を得ざる者は、外に在っても独立することができないという証拠である。

第六段落

第三条 独立の気力がない者は、人に頼んで悪事をすることがある。

 旧幕府の時代には名目金と言って、御三家と言われる権威の強い大名の名目を借りて金を貸し、随分無理な取引をしていたこともあった。このことは甚だにくむべきことである。自分の金を貸して返さない者があるのなら、本来なら再三再四力を尽くして政府に訴えるべきである。そうであるのに、この政府の名目ばかりを恐れて訴えることを知らず、訴えによって金を返してもらうばかりか、きたなくも他人の名目を借りて他人の暴威を借りて返金を促すとはなんとも卑怯なやり方ではないか。

 現在、名目金のことは聞かないけれども、外国人の名目を借りている者がいるのではないか。わたしはまだその確証を得たことがないので、それをここに論ずることはできないけれども、今までのことを思うと、こういったことが現在あっても何もおかしいことはない。

 この後、万一にも外国人と雑居するようなことがあった場合、その名目を借りて悪だくみをするような者があったのならば、国の災いは実に言うまでもないことである。だから、人民に独立の気力がないと便利だからといって、油断をしてはならない。災いは思わぬところに起こるものである。国民に独立の気力がいよいよ少なければ、国を売るという災いもまた従ってますます大きいというものだ。すなわち、この第三条に言った、人に依頼して悪事をするとはこのことである。

第七段落

 これらの三カ条に言うところは、全部、人民に独立の心が無いことによる災害である。いやしくも今の世に生まれて愛国の思いがある者は、公私を問わず、まず自分の独立を謀り、余力があったら他人の独立を助けるべきである。

 父兄は子弟に独立を教え、教師は生徒に独立を勧め、士農工商みなともに独立して国を守るべきである。概してこれを言えば、人を束縛してひとり自分で心配していることは、人を放って一緒に苦楽を共にすることに及ばないのである。

(明治六年 十二月出版)

まとめ
http://d.hatena.ne.jp/keigossa/20121007/1349584536


感想及び考察

■福沢の、独立の気力が無い者をそしる時の論調は、訳していて痛快な気持ちになってついつい笑ってしまう。この私の現代語訳にそれが現れているかはわからないけれども、福沢の筆がいつもより滑っていたことは間違いないだろうと思う。ここで言うと、第五段落の二個目のところである。このように、明らかに筆が滑っていたところには他にもある。気になる方は、是非とも「学問のすすめ」原文の方を読んでいただきたい。岩波文庫のものなら五百円で買えるし、ネットで検索すれば、無料で読めるようなサイトもいくつかあるようである。別に、そのことによって私の訳が読まれないことは、むしろそのほうがいいのであって、たまに分からないときとか、この感想および考察を参考にしてもらって、深く読んでいただければそれに越したことは無い。

■名目金について調べてみたところ、こういった制度であると思われる。まず、1.幕府は本来寺社仏閣の補修費などを出さなければならなかった。2.けれど、財政に行き詰っていてそれができなかった。3.このために寺社仏閣に「名目金」という金融商品の取引を許した。4.「名目金」は年ニ割以上の高利貸しであった。5.しかも、その借り主が破産した場合、寺社仏閣は優先してお金を返してもらうことができた。6.つまり、幕府の威光を借りて間違いなくお金を取り立てることができる高利貸しをしていた。参考 http://kgur.kwansei.ac.jp/dspace/bitstream/10236/5261/1/351-01.pdf


要約

第二条 内に居て独立の地位を得ることができない者は、外に在って外国人と接するときもまた、独立の権義を発揮することはできない。

第五段落
 独立の気力がない人は必ず人に頼る、人に頼る人は必ず人を恐れる、そして人を恐れる人は必ず人に諂(へつら)うものである。こういった現在の臆病神の手下とも言える日本の国民性は、江戸時代の政治体制と関わりの深いものである。これは当時は便利なものであったけれど、現在では一国の損失と一国の恥辱の本となっている。こういった町人根性があることによって、見たことのない外国人を見て驚き、肝を抜かれ、恐れてしまうからである。だからこそ、国内にあるときでも、人に頼らない独立の気力を持たなければならない。

第三条 独立の気力がない者は、人に頼んで悪事をすることがある。

第六段落
 旧幕府の時代には、徳川家の名を借りて、金貸しをする名目金というものがあった。これは、人の威を借りて金を返せというやり方であり、卑怯であることこの上ない。そして、こういった人の名を借りてやるやり方は、人に頼るという独立の気力がないことによって起こる悪事である。もしも今、外国人の名を借りて、悪事をしている者があるのなら、これはまさに国の禍(わざわい)である。独立の気力がないことを便利などと言っていることはできない。

第七段落
 これらの三カ条に言うところは、全部、人民に独立の心が無いことによる災害である。愛国の思いがある者は、公私を問わずまず自分の独立を謀り、余力があったら他人の独立を助けるべきである。人を束縛してひとり自分だけで心配していることは、人を放って一緒に苦楽を共にすることに及ばないのである。