正義の力 五倍の法則

 これは、今までの経験上などで導き出したことなのだけど、何も悪いことや卑怯なことをしないで名声を勝ち取るためには、その悪いことや卑怯なことをする人の最低でも五倍の力を持っていないとならない。

 私はこれをボクシングに例える。

 このボクシング会場は、審判が居なくて、審判は観衆だけである。だから、うまいこと反則をすれば、試合を有利に進めることができる。たとえば、グローブの中に石を握って拳を固くしたり、エルボーをみんなから見えないように出したり、わからないように足をひっかけたり、さりげなく頭突きしたり、時にはひざや足で攻撃したりと、本来のルールに従わずに、普通なら反則の技を出しても「ばれなければ」何も自分を不利にしない。

 もちろん、ここで反則を平気でする人は卑怯な人間である。彼にとっては「ばれなければいい」だけであるからだ。

 しかし、こういった卑怯なことをどうしても受け入れることのできない「奇特」な人も世の中にはいるわけで、この「ばれなければいい」ボクシング会場でも、彼はボクシングのルールを順守する。こういったフェアープレーの人が、いかにこの会場で不利であるのか、これは一目瞭然であろう。なにしろ、こちらは腕二本、拳二つだけで戦っているのに、相手は何でもアリ、頭、肩、ひじ、ひざ、それら全部を駆使してくる。

 このフェアープレーの人がいかに不利であるか、それは想像に易い。だから、このフェアープレーの人が相手に勝つためには、相手に対してほぼ五倍に相当する力を持っていないとならない。

 なぜなら、観衆は正しい者より強い者のほうになびくし、正しい者より強い者のほうが好きであるからである。だから、拳二つという不利に加えて、さらに、観衆のほとんどをも敵にしないとならない。しかし、この観衆の中にも、もちろんこのフェアープレーの人を応援して、相手の反則を見るたびに憤りを感じたり、目を手で覆ったりしている人も少しはいた。それに、ほとんどの観衆も、心の奥底では、みんなフェアープレーの人に勝ってほしいと思っている。ただ、自分だけがその人を応援して、みんなから仲間はずれにされるのを恐れたし、反則云々を抜きにして、暴力と強者を見て心をスカッとさせるような気持ちもあった。

 フェアープレーの人は連戦連敗、これ以上ないどん底をいつも味わっていた。対する卑怯者は、自分の卑怯な手段にうぬぼれて、慢心し、おごり高ぶり、遂に卑怯な技の練習ばかりするようになっていた。そのころ、フェアープレーの人は、正攻法の体得と基礎練習を続け、相当に強くなっていた。もちろん時間はかかった。卑怯者が10年タイトルを防衛していたとき、フェアープレーの人は最後のチャンスだと、その試合に臨んだ。

 そのころ、もしも、卑怯者が卑怯な手段を使わなかったら、この人は、きっと1ラウンド目の1分以内には、完全に相手をノックアウトできるほどの実力を持っていた。だけど、試合は16ラウンドまでもつれた。それは、卑怯者が相変わらず卑怯なことで自分を有利にしていたからだ。だけど、観衆も10ラウンド目くらいから、卑怯者を応援しなくなり出した。どうしようかと思い始めたのである。あんな有利な卑怯者が、どれだけ卑怯な技を繰り出しても、彼がビクともしないどころか、むしろフェアープレーだけで卑怯者を押していたからである。

 そして、運命の16ラウンド、もう、切羽詰まってあからさまにルール違反のことをしている卑怯者の姿がそこにあった。誰が見ても「強者」と言えるようなありさまではなかった。単なるみっともない人、往生際の悪い人であった。それに反して、フェアープレーの人のりりしさと強さばかりが目に焼きついた。ゴングの鳴る寸前だった。フェアープレーの人の右ストレートが、卑怯者の肘を通り抜け、卑怯者のほほを完全に捉えた。卑怯者は完全にノックアウトした。

 観衆は大きな歓声を上げて心の底から喜び、今までこのフェアープレーの人を応援していなかったことを心の底から悔いた。その観衆にこのフェアープレーの人が言った。「皆さんのおかげで勝てたのです。心の底で私の方を応援してくれていたことには最初から気が付いていました。」観衆は、自らの愚かさを悔いて恥じて、それ以来、このフェアープレーの人をとても大事にした。

 実社会でのフェアープレーは、とても難しい、なぜならそのルールを知ることさえ難しいのであるのだから。だけど、そのルールを探し追い求め、そのルールに沿った本当の正攻法を手に入れるならば、本当に向かうところ敵なしであろう。とても難しいことではあるのだけど。