4.学問のすすめ 初編 第三段落-後半

初編 第三段落-後半

 この明治維新で国が一新して王政となって以来、われらが日本の政治は大きく改まり、外は万国の公法に従って外国と交わり、内では人民に自由独立の趣旨を示し、既に平民でも名字を名乗って馬に乗ることも許されたというようなことは、日本始まって以来の一大美事であって、士農工商、四民の位という身分差別が無くなるための基礎がここに定まったと言うべきである。

 ならば、今から後は日本国中の人民に、生まれつきに定められた位(身分)というものはなくなり、ただその人の才能と人格と何をしているのかということによって位(身分)が定まるのである。

 例えば、政府の役人をいい加減に扱わなということは当然のことであるけれども、これはその役人が生まれながらにして貴いというわけではなくて、その人が才能や努力によってその役所の仕事を行い、国民のために貴い国法というものを取り扱っているから、この人をいい加減には扱わないのである。だから、人が貴いということはでない、国法こそが貴いのだ。

 旧幕府の時代、東海道で御茶壺が通行していたことは皆の良く知るところである。この他にも、「御用」の鷹は人よりも貴く、「御用」の馬には往来の旅人も道を避けるなど、なんでもかんでも「御用」という文字が付くと恐ろしく貴いもののように見えて、世の中の人も数千百年の昔からこういったことを嫌いながらも、このしきたりに慣れてしまって、上下でお互いにこの見苦しい風習を成していた。

 しかし、これらのこと全部は、つまるところ、法が貴かったというわけでもなくて、その品物が貴かったというわけでもなくて、ただいたずらに幕府の威光を示して人を恐れ入らせて、自由を邪魔しようとする卑怯なやり方であって、実のない虚しい威光と言うべきものである。

 今日では、日本国内のどこにもこういった浅ましい制度や風習といったものは、もはやないはずである。ならば、人々は安心して、もしも政府に対して不平を持つようなことがあれば、これを包み隠して陰で政府を怨むようなことはせずに、そのことについて詳しく調べて筋を通した上で、静かにこれを訴えて遠慮なく議論するべきである。天の理と人情に違わないことであるならば、一命を投げ打ってでも争うべきである。これがすなわち一国人民たる者の分限というものである。

まとめ
http://d.hatena.ne.jp/keigossa/20121007/1349584536

感想及び考察

■「御用」は今で言うと何になるであろう。そういったものは現代ではないかもしれない。少し近いことならば想像できるかもしれない。例えば、とても偉がる社長がいたとして、社長のイスはイタリアの特製品、机もおフランスの最上のもの、お茶も静岡県産の玉露で、この小さな会社では事務所の一角にあるに過ぎないものばかりであったけど、社長以外の社員は、会社にあるこれらのもに触れることすら許されない。触ろうものなら社長から減給措置が下される。と言ったような感じか。例えを現代にすると、そのくだらなさが如実に顕される。

■「この明治維新で国が一新して王政となって以来」ここの原文は、「王政一度新たなりしより以来」である。日本は江戸幕府を中心とした「封建国家」であった。(▼封建国家とは?一番強い江戸藩が他の藩を統括していたのであって、藩で一番偉い藩主は、徳川家の家来とは少し違う。この辺のニュアンスは難しいかもしれない。例えば、親会社と子会社と言った感じか。子会社の社長は、親会社の社長と同じ「社長」であるけれども、子会社の社長は親会社の社長の命令にある程度従わなければならない。)これが、明治維新で「立憲君主制度」、つまり憲法を最上とした上での天皇(王・君主)を中心とした国家となった。それで、この立憲君主制度というのは、西洋の封建主義的王政の延長にあるので、王=天皇ということとして訳しておいた。ここは諸説あるかもしれない。

■この段落で述べられた「分限」とは一体何であろう。
1.人に迷惑をかけないこと
2.言うべきことは言うこと
3.わがまま勝手で遊び呆けないこと
4.自分以外は人でないというようにならないこと
5.やるべきことはやること
と言えるのではないか。この「分限」は、現在だと「分限を越えている、分限を守る」などと使って差し出がましいことをしないことや、自分の義務の範囲を越えないこと、立場相応のことをすることなどを意味しているけど、福沢諭吉の「分限」はもっと奥が深いようである。この「分限」を学んで知り、それを実践することで、「独立自尊」の道も歩めるのでないか。


要約

このように、分限とは、皆で共通にして同一のものであるから、生まれや、そのときの地位によるものではない。だから、役人が貴いのでなくて、国法が貴いのであり、役人を恐れる必要などなく、国法こそを畏れなければならない。また、この国法とは、われわれ自身のものであるから、この国法に関して、天の理と人情に違わないことでさえあるれば、一命を投げ打ってでも争うべきである。これがすなわち一国人民たる者の分限というものである。