教育の歴史はとても浅い

 最近、各国史を勉強していて、このことを痛感して思い始めた。

 世界各国で、教育が歴史の表舞台に出るのは、たったの100〜200年前のことだ。エジプト古代文明が紀元前4000年から花開いていたことから考えると、人間が文明を持ち始めて6000年のうち、最近200年、たったの1/30〜1/60しか教育というものが行われていない。この下りは、衝撃度を上げて伝えるために、敢えてことの一面だけを捉えて、最も教育史が短くなるように算出したものではある。

 最も長く教育史を捉えるならば、教育史は人間が言葉を有する以前からあるとすべきだろう。それは、史書として記録はあるわけではないが、猫が自分の子猫に狩りの仕方を教えるように、人間も何らかの形でそういった教育を行っていたことが容易に想像されるからである。

 では、史書として記録のある教育はいつから始まるのか。私の知る限りだと、最低でも2500年前にさかのぼることができる。中国の春秋戦国時代に活躍した孔子は、論語で教育の基礎である「六芸(礼・楽・射・御・書・数)」について触れている。また、孔子の存在自体が、当時教育という概念があったことを証明する何よりの証拠だろう。

 では、冒頭で私はどのような一面から教育史が短いと断言したのか。言ってしまうと、私は、現在のような一般学校教育という教育制度が用いられたことに注目して、そのように断言したのである。想像に易いように、敢えて歴史的事実を挙げる。明治維新以前に、一般庶民が教育を受けられる機関は、寺子屋しかなかった。しかも、その寺子屋とは、私塾であって、現在のような公的なものではなかった。ヨーロッパで、教育は、財政的に豊かな者が家庭教師を通じて受けたり、貴族のみ通えるよな貴族学校に通ったり、庶民は教会で稀にそのようなものを受けたりしていた程度だった。また、子供が未熟であって、教育を受けなければならないもの、ということが発見されたこと自体、ようやく17世紀ころになったからだと言うことらしい。(アリエス、子供の誕生 にそのことが書かれているらしいが、未読)

 このように、教育というものの重要性に反して、一般学校教育の歴史は非常に浅い。つまり、一般学校教育という研究分野には、まだまだ研究し、論究し、追求すべきものが多大に残されているのだ。しかしながら、教育者というのは、とかく傲慢に陥りやすい。それもそのはずで、知らない者(被教育者、子供)に対して知る者(教育者、大人)が教える。という、圧倒的有利のものとに日常が進むからである。すると、よほどそのことに注意を払う人でない限り、教育者は自己優位の観念に支配され、どんどんと知的に傲慢になってしまうのだ。このような弊害が、未だ未発達である教育を、「全きもの」「神秘的なもの」のように錯覚させてしまっていることは非常に嘆かわしい。教育に携わる人は、この「学校教育の歴史の短さ」を頭に置いて、「最も大事であるが、最も未発達な教育と言う研究分野」をしっかりと発展させてほしい。