福音書を読み返して1

 私は、仏教的観点から、神が何であるのか、賢人や聖者とはどんなものであるかということを、ある程度認識することができた。

 その上で、つまり、前読んだ時よりも深いと思われる認識で、キリスト教とは何であるのかをもう一度確認しようと思って、福音書を読み返している。それとも、私は現段階でキリスト教を無意識に欲しているのかもしれない。

 まだ、マルコを半分くらい読んだくらいだけど、こうではないか、と思ったことがある。

1、謎が多い。例えや、話の一貫性が難しすぎてほとんど意味のわからない部分がある。
2、「成仏道における出家と同じとしか思えないこと」を弟子や人に勧める部分がある。
3、仏教のように、怒りなどの不徳を全て否定しているわけではない。言葉を変えると、最上ではない人間らしさを肯定している部分がある。
4、悪い言い方をすると、神がものすごく押しつけがましい。仏教だと、その仏の法すらにも、執着しないことを勧めているのに対して、キリスト教だと神への信仰と服従を絶対的に肯定し、強制するきらいがある。
5、仏教よりも慈愛を前面に押し出している。
6、平等な慈愛でなくて、人としての愛(悪い言い方をするとえこひいきの愛)を肯定している。もちろん、その半面で平等な慈愛も肯定している。
7、あくまで人中心である。仏教のような他の生物への配慮がない。(キリストはイチジクを呪いで枯らしてしまっている、人の悪鬼を払って豚が湖に落ちて死ぬ話がある)
8、普遍的、抽象的なことを述べる部分がない(事実や物語が色彩豊かに述べられているだけで、理をひと言でズバッと易簡に述べる部分がない)
9、キリストの生活は、遍歴しているのと、ひとりで静かに瞑想したりする部分で、仏教の出家者と変わらない。ただ、大きく違うのは、顕著な奇跡を至る所でやっていること。


 と言うようなことに気付いた。

 仏教との違いの理由として、イスラエルの自然条件や民族としての歴史的経緯が挙げられる。それと、もう一つは、キリスト教が政治にかなり悪用されてきた歴史的経緯が挙げられる。このあたりのバイアスというか歪みというかが大きくかかりすぎていて、いまだ、キリスト教の神髄というか、聖書の本当の姿が見えていないような気はする。ただ、その半面で、これは間違いないことだと言う得体の知れない確信が得られる部分もある。あと、神とその存在は信じることによって意味のある存在だという大前提もある。まだ最初の方だし、とりあえず読み進めてみよう。