聖書を読み返して2

 なぜイエスは聖書学者やパリサイ人に殺されたのか、ということについて面白いことを思いついてしまった。

 注意・私は今日思いつきましたが、ちょっと記憶の片隅にあるような気もするので、内容としては世間で既出かもしれません。

 まず、イエスは、救世主(キリスト)であると同時に預言者であった。預言者とは未来を予知し、それを何らかの形で示す者である。そう考えたとき、イエス自身が聖書学者やパリサイ人に殺されること自体が預言であったのではないかと思った。

 つまり、自分の本当の教えを後の世で殺す者こそ、聖書学者やパリサイ人であることを、事実、自分がそれらの人に殺されることで予言していたのではないか。ということである。前の日記でも書いたように、私の感性からすると、聖書の内容は、権力に利用されんがためにかなり曲げられているとしか思えない。もちろんその中には、とても素晴らしく曲げられていない真実も含まれている。だけど、今私の読んでいる感覚だと、8割以上が真意をしっかりと伝えていないもの、または、言い回しを少し変えることで意味を損ねてしまっているもの、のような気がする。

 それで、イエスはこうなる(自分の教えがその時の権威者によって曲げられていくこと)を生前に予想した上で、自分の死に方という形でそれを預言として残したのではないかということだ。まあ、そのこと自体がイザヤによって既に預言されていたという風にも考えられるけど、イザヤや他の預言については読んだこともないし、そこまで遡って推測することは私には難しい。

 釈尊も、尼僧が仏教団に加わることで、600年清浄を保つサンガ(僧の群れ)が300年しか清浄を保てなくなると言ったらしい。(年数は曖昧です)釈尊やイエスにとって、1000年、2000年後を正確に知ることなどたやすいことだと思う。まあ、この確信が、この私の推測の一番の根拠でもある。だからどうなのだ。と言うと、「聖書も疑って読むべき」というのが、イエス自身も望んだ正しい聖書との接し方ではないか。と思ったのだ。そして、私のそういった姿勢を肯定したいという、こじつけと言えばこじつけでもある。でも、やっぱり聖書の全てが曲げらていない真実であるとは思えない。

 前読んだときはそんなこと思いもせず、全部正しいという方向からしか読まなかったが、今、そうでない方向からそれを読んでいる。いや、むしろ読むことができるようになった、ということではないかと自分では思う。