ユダヤ教とキリスト教について

ユダヤ教キリスト教が、親子か兄弟の関係であることは、ほとんどの人がご存知のことと思う。さらに詳しく言えば、ユダヤ教の経典と、キリスト教旧約聖書が同じということになる。それで、キリスト教には新約聖書もあるのだから、ユダヤ教、プラスアルファがキリスト教とも考えられる。しかし、実際のところは、こんな簡単にプラスマイナスできないみたいだ。

その大きな違いの例として、創世記のアダムとイブの話を出してみたい。

これから題材にするアダムとイブの話を、創世記を参照し、解釈なしであらすじだけ書くと、

場面1
神は、川や山を作ると、最初の人である男性のアダムを土から作った。
神はこのときに「禁断の果実だけは食べてはならない。」と言う。
そして、獣や鳥を作って、アダムの協力者たる女性をアダムの肋骨から作った。

場面2
しばらくして、蛇の勧めを受けた女性が夫を誘って、二人は禁断の果実を食べてしまう。
神は、二人が裸を恥じて隠れていることからこの事実を知ると、それぞれに次のような試練というか呪いというかをかける。
1.蛇に「足のない暮らし」と「子孫が争いを起こすこと」
2.女に「子を産むときに苦しむこと」と「夫への依存と従属」
3.人に「苦労して食べ物を生産すること」と「いつか死ぬこと」

場面3
神はこれらのことを言うと、女に、すべての生けるものの母、イブという名を付ける。
そして、二人のために革衣を作って着せる。
次に「人は善悪を知った。永久に生きるかもしれない。」と言う。
最後に二人をエデンの園から追放して、エデンの園の東に見張りを置いた。

ということになる。


キリスト教的な解釈は、映画にもなっていて有名だけど、私の記憶する限りのキリスト教的解釈で、神の気持ちを語るとこうなる。
場面1
「いろいろな理由はあるけど、難しすぎて説明はしない。そしてこの能力が自分にあるから、これから人のいる世界を作るのだ。しかし、人は放おっておくと失敗作ともなる。そのような人は見たくないから戒めとして禁断の果実を作っておこう。」
場面2
「あー、腹立たしい。やっぱり人は裏切った。彼らはあの実を食べたのだから。この罪には罰を与えないとならない。罰を与えるしかない。」
場面3
「最後に少しだけ餞別を送るけど、もう彼らとは絶交し、この楽園には入れてやらない。それも罰の一つなのだから。」

キリスト教において、この聖書の解釈が変わることはないだろう。なぜなら、キリスト教の神は最高に権威がある者で、何者にも変えられない絶対者なのだから。この絶対者が、罪を決めて、罰を与えなければ、誰がそれに代わることができるだろうか。そして、われわれは、罪を背負っているからこそ、苦しんで生きなければならないのだ。だから、この創世記の解釈をこれ以外のものにすると、「私が背負っている理不尽な罰」の根拠が無くなってしまう。

これに対して、ユダヤ教では、聖典の解釈は自由にやって良いらしい。ただ、聖典を逸脱することのみが咎められるのだ。だから、解釈のしようによっては、聖典の神が絶対者でも権威者でもなくなる。自分が背負っている理不尽な罰も、そこに根拠はなく、「それはそういうもの」なのだ。だから、ユダヤ教的神の気持ちはこう考えることもできるわけだ。
場面1
「いろいろな理由はあるけど、難しすぎて説明はしない。そしてこの能力が自分にあるから、これから人のいる世界を作るのだ。あと自分一人だとさみしいし。でも、こいつも成長したら、いつか自分の意志で全部やりたくなるだろうなぁ。そのときの目安として禁断の果実を作っておこう。」
場面2
「ああ、遂に食べたか。こいつも成長したなぁ。よし、ほんじゃあ世間様の厳しさとかそのへんのことだけ教えてやろう。」
場面3
「まあ、どうしても辛くなったら戻ってきてもいいけど、自分の意志でやるんならその責任も感じてもらわんとなぁ。そうしないと繁栄しないし。とりあえず、ここには帰りにくくしておくけど、あとは好きな様にやらせてみよう。」


今まで述べたのが聖典解釈の違いの話になる。

次には戒律の話だけど、ユダヤ教は、豚を食べてはならないとか、魚を食べてはならないとか、土曜日には何もしてはならないとか、実生活を具体的に律するような戒律が多いらしい。これに対して、キリスト教の戒律がわりと緩いことはご存知の通りと思う。少なくとも食べ物禁止の戒律は聞いたことがない。

この二つの違いから考えてみると、古い時代から現在まで残っている宗教には、なんらかの「縛り」のバランスがあるのではないかと思われる。つまり、ユダヤ教では聖典解釈が緩い代わりに、実生活で律するものがきつい、キリスト教では、聖典解釈がきつい代わりに、実生活を律するものが緩い。こうして考えてみると、人間という生き物は、なんらかの「縛り」があることによって、逆に安心する部分があるのだ。そして、その縛りにもある黄金率的なバランスがあるように思われる。

とはいえ、現代で「宗教を信じる人」が少ないことは、みなさんも知ってのとおりだ。ここに書いたような聖典解釈まで遡って宗教を信じている人は、万人に一人くらいかもしれない。そうすると、縛りを持っている人自体が少ないのだから、先に私が仮定した「縛りの黄金率」なんぞ、そもそもないようにも思われる。

でも、それがそうでもないと思う。現代人は、まず「会社」に縛られ、「テレビの洗脳情報」に縛られ、「友達の間での不文律(ラインで既読スルーしないとか)」に縛られ、時には「怪しげなブログw」に縛られ、とにかく何かに縛られているのである。恐らくそれは無意識で、ほとんど押し付けと洗脳に近いものであろう。

それならば、宗教を自分で選んで、そうすることによって、自分らしい、本当に自分が選んだ「縛り」に甘んじたほうがよっぽど自由だと思う。けれど、そのへんのことは、「無意識に縛られている人」が決して知り得ないことなのかもしれない。