仁と慈愛

 最近、「論語の仁」と「ダライラマの慈愛」は、同じか、かなり近いものなのではないかと考え始めた。

 慈愛とは、compassion(思いやり)とlove(愛)とkindness(親切な行動)とaffection(愛情)を複合したような言葉である。日本では、それを慈愛や慈悲、または愛というような言葉で表現している。実にダライラマが賢いことによって、彼はいくつもの英単語で慈愛という言葉を表現している。愛や慈愛という言葉は、簡単で誰でも知る言葉ではあるが、その意味はとてつもなく深く、そしてとてつもなく難しい。愛や慈愛を知ったと言っても、それが足りることはないと思う。そうして、ダライラマが、いくつもの言葉でそれを表現したことによって、私は慈愛の本当の意味を少し知ることができた。


 それで、昔勉強した論語を思い出してみるに、慈愛とは仁のことではないかと思い始めた。


 子まれにいう、利と命と仁と。(先生は、利と命と仁については滅多に語らなかった。)

 宇野哲人 解説によると 孔子がなぜそれを語らなかったというと、利と命と仁はその意味が難しく、かなりの高弟でないと意味を理解できなかったからである。逆に言うと誤解してしまったり、浅い認識のまま理解してしまって、かえって、学問の上達を停滞させてしまう可能性があったからである。

 実に、慈愛はその通りのことであると思う。「慈愛とは、思いやりだ、愛だ。これこれこういうことだ。」と言って簡単に済ませれるようなことではない。あくまで、それを知ったと言っても、まだ上がないのが慈愛である。

 そして、慈愛は、全ての美徳の基本であると同時に、全ての美徳の最奥でもある。論語に言う学問は、「仁に始まり、仁に終わる」のであって、言葉を変えると、「慈愛に始まり、慈愛に終わる」のである。ダライラマの発言と、私の認識している体系と、論語の学問体系が一致した。

 今、少しだけ、論語の仁の部分を読み返してみたり、思い出してみたりするに、今私の理解した「慈愛」と、そこに登場する「仁」は全く同一のものである。


 一度は、そこが頂上だと勘違いしてしまっていたときもあったけど、ダライラマの発言や、その他数限りないもののおかげでその誤りに気付き、やっとここまで辿りつくことができた。そして、辿りついてみると、そこには、やはり前よりも長く、そしてはるかに険しい道のりが待ち構えていたのであった。

 それにしても、釈尊は一体どれだけの生死を繰り返して、どれだけの慈愛を踏み行ったのであろう。ダライラマ孔子でさえ、まだ踏襲し得ていない慈愛を経て、仏となることができたのであろうから。その道のりは、私から見ると、ここから銀河の果て、宇宙の果てまで歩いていくほどの長い道のりである。