「人生に意味はあるか」(講談社現代新書)を読んで

人生に意味はあるか (講談社現代新書)

人生に意味はあるか (講談社現代新書)

どんな本だったかというと、典型的な思想紹介本だった。

ただ、あとがきを読んでみると、生きる意味について考えたことのない人を、「生きる意味とは何か?」という問いに引きこむのが本書の目的らしい。この目的が達成されたかどうかは分からないけれど、それになりに気は使われていたと思う。さらに言うなら、二部作(自分の体験を語る)と三部作(具体的な実践方法)を書くことを予定しているらしい。

著者の方についは、「カウンセラー」なのか、「大学の教授」なのか、職業が不詳である。これほど自分のことを語っているのに、どうして職業不詳と読者が思うのだろうか?唯一確かなことは、トランスパーソナル心理学が専門らしいことだ。

あと、この方のカウンセラーとしての実力がどれほどのものかはわからないのだけれど、この人のカウンセリングを受けて「救われた」と思う人は少ないだろうなぁと思った。これがなぜかと言うに、「説得しない」からである。この人は、「押し付ける」ことと「説得すること」を履き違えている。これは、カウンセリングを受ける側からすると、致命的に誠実さを欠く態度である。

というのも「説得しない」というのは、「あなたに深く関わらない」という態度であり、このような態度を取られて喜ばしく思う人や、救われたと思う人は少ないだろう。だから、「説得する」という意気込みは必要なのである。しかし、その意気込みが強すぎると、「押し付け」かねない。「押し付け」は、その人への人格否定であり、これはやってはならない。この二つのことの境界線を分かっていないのだろうなぁと思った。フランクルの翻訳本もあるらしいが、それを読んでも理解していなかったか、あるいは知っているだけでよいのが学問で、実践する必要などないものが学問と思っているのではないか。

あと、この方は、どうしても「スピリチュアリティ」という学術分野を確立したいようであるが、カテゴリー的にはどうしても「宗教」「哲学」「物理学」のどれかに淘汰されるだろうということは言いたい。

ここで私の定義であるが、
「宗教とは、人の救済が至高にして唯一の目標であるもの」
「哲学とは、知を愛するということが語源であるように、真実を考えることによって求めるもの」
「物理学とは、現象を科学的に(つまり誰もが納得しうる理論で、同じ現象を繰り返し起こすことを前提として)一般化すること」である。
ちなみに、心理学は、人の心理現象を科学あるいは哲学によって解明する学問ということになる。

だから、スピリチュアリティを哲学と横に並べるのは、どうしてもおかしい。専門特化の進んだ現在の学術体系からすると、心理学の一分野とするくらいが妥当だと思う。逆に言えば、スピリチュアリティは、他の学問分野からいいとこ取りした中途半端なものとも言える。

この点、「深く関わらない」ことが受け入れられる現代で、スピリチュアルが流行るのも無理はない。悪く言えば、スピリチュアルは雰囲気が重視されるものなのだ。つまり、雰囲気が合致すれば、「一時的な救い」となることはあるが、宗教や哲学のように、「根源的な救い」をもたらすことはないもの、これがスピリチュアルである。

ほとんど批判となってしまったが、冒頭に書いたように、「思想紹介本」ということで読むなら、それほど悪い本ではないと思う。ただ、救いを求めてはならないことは上に述べてきた通りである。

本自体は古いこと(10年前)もあって、興味深いようなことはなく、一度は目にしたことがあるようなことが多かった。

興味深かったのは、この著者の方の体験として、「生きる意味を考え続けた挙句、もういいやとなって、仰向けになったとき、光の玉が自分の外にあることが気がついて、この後に、全ての謎が解けたという感覚を得られるようになった」との記述だった。こうゆう体験をしている人は多いらしい。

あと、もう一個、気に食わなかった点として、仏教の空のことを全く理解していないと思われることがあった。たぶん、「中論」を読んだことがないのではないか。あるいは、般若心経は読んだことはあっても、金剛般若経は読んだことがないとも思われる。または、読んでいても理解していないか、ということになる。優秀な方であるようだから、ぜひとも、講談社学術文庫「龍樹」を読んでいただきたいと思う。

最後に、かなり批判的になってしまったが、ここまで書いてきたことはあくまでも私の見解なので、仮に説得力があったとしても、それほど信じないで欲しい。

人と比べない生き方(SB新書)を読んで

全体的な筆致としては、説明形式の本であった。
このため、読者の感情や思考に直接呼びかけるのでなく、アドラー心理学というものを読者に説明し、これを理解してもらうことで何か得る所があるのでは?というスタンスで書かれた本ということになる。

内容としては、上記のようにアドラー心理学が基調となっており、森田療法コフートからの援用がところどころあるというものだった。

そこで、この著者の方が言うところのアドラー心理学がどういったものかと言うと、人は成功体験を重ねることにより、心に優越性を持てるようになり、優越性を持てるようになると共同体感覚が持てるようになって、劣等感がなくなりいろいろうまくいく、というもののようだ。

私の感想としては、著者の方には大変失礼であるが、この著者の方は、「昔の仏教集団とかで、非常に高弟であり、また皆からの信頼も厚いが、なぜか師匠からは認められず、後継者に選ばれないタイプ」だなぁと思った。そう思った理由は、確かにアドラー心理学には詳しいのであろうが、この方が、恐らくアドラーが一生懸命読んだと思われるプラトンアリストテレス、聖書といった古典をしっかり読んでいないと思われることがある。理解が表層的に感じられ、深い考えや親身さが伝わってこないのだ。その時に評価される、また、その時に必要な、最も効率のよい方法を一直線に進んで、寄り道をしていないと思われるので、全く深みが感じられない。著書量産型の著者であることも関係しているだろう。この点に目をつむって、アドラー心理学の概要をつかむということなら、それなりの本ではあると思う。

あと、全体を読んでも、全然スッキリした感覚が得られないのであるが、この理由として、この著者の方が受験の神様とか言われていることが関係している。というのも、とにかく「勝つこと」「勝って優越性を持つこと」が全面に出ており、これが全ての解決法みたいな印象を受けるからである。しかし、私は、「優越性のあるはずの人がかなりひねくれた性格であったり、依存症であったり、普段から満足感を感じていないように見える」という事例をいくつも見ているのである。だから、この著者の方は、かなり友人や知り合いに恵まれていたのだろうし、受験への対策というようなことが基調としてあるのだろうと思った。

私の考えとしては、まず、競争の対象は「古今東西一等の人物」とすべきと思う。これは、吉田松陰など幕末の志士に絶大な影響を与えた佐藤一斎の考えでもある。つまり、孔子ブッダ、キリスト、など人類史上でこの上なく尊崇される人をまず競争相手として選び、彼らに追いつけ追い越せしなければならない。それで、これらの聖人を基準として、彼らに近づくことを「優越性」とするのだ。皆がこのような目標で、このような競争をし続けるならば、この世が理想郷になること、また、悩みを抱える人が減ることは、誰も疑うべくもあるまい。

本当は内容について、もう少し細かく書こうと思ったのだけど、それはメモに残してあるし、あまりにも長くなってしまったので、このレヴューはこれで終わりにしようと思う。興味深かった単語だけ、以下に列挙する。

スクールカースト
劣等感⇒劣等コンプレックス
人の悪い所が見える時の3つの理由
ジゾフレア型=統合失調型、メランコリア型=躁鬱型
成功体験、認知行動療法
森田療法:劣等感の本来の理由を思い出して認知行動療法をする
例:背が低い(劣等コンプレックス)⇒女性にモテない(本来の理由)⇒背が低いのはどうにもならないから、これを忘れて、別の方法、つまり性格が良くなることを目指す
依存とは依存することで空虚を一時的に解消すること
共同体感覚と優越性

インターネットの当てこすりについて

今、ツイッターを見ていたら、ワタミの渡邉氏が、「前々回の都知事選で都知事に落選したのが実に残念です。私が都知事に当選していたら・・・」という旨の発言をしていた。

そういった発言をすること自体は、こういった人には普通にありえることで、なんとも思わないのだけど、この発言に対して多数の「反感リプライ」が寄せられていた。ツイッターではわりと珍しい部類に入るのだけど、100件以上はあったと思う。

ちなみに、ツイッターについてあまり知らない方のために説明すると、ツイッターのリプライという機能は、mixiやその他ブログで言えば、コメントに当たる機能で、本人に対して、直接にもの申すような形式となっている。

「反感リプライ」の具体的なものは、

「お前よりは舛添や猪瀬のほうがマシ」
「お前が都知事になっていたら、都政がブラック化していただろうな」
「残業代をまともに払えない奴が」

みたいなものだった。これが、ざっと100件以上である。普通の人なら耐えられないことは間違いなかろう。

それで、この「反感リプライ」をした人は、直接に、渡邉氏に対してもの申しているのである。

だが、しかし、ツイッターというのは非常に匿名性が高く、中身の人を特定するには、IPアドレスなどを調べたりしなければならないらしい。よって、それなりの労力や費用が必要であり、ほぼ特定されることはない、として間違いない。

これに対して、フェイスブックは、実名を明記することが前提のものであり、匿名性はほぼない。

そのような「違い」もあることであるし、そのツイッターの発言もフェイスブックからの転送だったので、ついでにこっちも見てみた。

そしたら、なんということでしょう〜〜

そこには、31件の応援コメントと、たった1件の反感コメントしかないのです…

31件の応援コメントも媚びへつらいか恩着せがましい胡散臭いものとしか思えないのは、あくまで個人的見解であるけれど、たった一件しか「反感コメント」がないことには、仰天騒地、青天霹靂、山流川止の驚き(笑)を感じたのであった…

これこそ、インターネットの当てこすりの核心を如実に示した事例だと思う。

フェイスブックの方は、渡辺氏がマメに反感コメントを消しているのかもしれないが、いずれにせよ、対応するかしないかでの違いも、インターネットの当てこすりの核心である。

ああ、人というものは…と思う…

賤しい人

昨日は寝付けなかったので、岩波文庫ブッダの言葉(スッタニパータ)を読んでいた。

多くの人は頭の回転が早い人を「賢い人」と言ったりするけれど、これは厳密に言えば少し違う、こういった人は「智者であるかもしれないが、賢者とは限らない」とするのが正解である。

というのも、智者はその頭の回転が早いことによって人を貶めたり、利己的欲求を実現する可能性もあるのだけど、賢者はそういったことをしない。なぜなら、そういったことをすれば、自分に全て跳ね返ってくることを知っているのが賢者だからである。

つまり、賢者とは道理を正しく知る人であって、決して頭の回転が早いだけの人ではない。

また、賢者は当たり前のことを当たり前に説明する人であるとも言える。例えば、このタイトルにもある「賤しい人」がどんな人なのか、すぐに説明できる人などほとんどいないだろう。われわれ凡人にとってみれば、「あ〜と、え〜と、○○みたいなやつ、これが賤しい人だ」と言うのが精一杯なのである。


では、岩波文庫ブッダの言葉(スッタニパータ)から、賢者の回答を見てみよう。


怒りやすくて恨みをいただき、邪悪にして、見せかけてあざむき、誤った見解を奉じ、たくらみのある人、彼を賤しい人であると知れ。

一度生まれるものでも二度生まれるものでも、この世で生きものを害し、生きものに対するあわれみのない人、彼を賤しい人であると知れ。

村や町を破壊し、包囲し、圧制者として一般に知られる人、彼を賤しい人であると知れ。

村にあっても林にあっても、他人の所有物をば、与えられないのに盗みの心をもって取る人、彼を賤しい人であると知れ。

実際には負債があるのに、返済されるように督促がされると、「あなたからの負債はない」といって言い逃れる人、彼を賤しい人であると知れ。

実に僅かの物が欲しくて路行く人を殺害して、僅かの物を奪い取る人、彼を賤しい人であると知れ。

証人として尋ねられたときに、自分のため、他人のため、また財のために、偽りを語る人、彼を賤しい人であると知れ。

或いは暴力を用い、或いは相愛して、親族又は友人の妻と交わる人、彼を賤しい人であると知れ。

己は財豊かであるのに、年老いて衰えた母や父を養わない人、彼を賤しい人であると知れ。

母、父、兄弟、姉妹、或いは義母を打ち、またはことばで罵る人、彼を賤しい人であると知れ。

相手の利益となることを問われたのに不利益を教え、隠し事をして語る人、彼を賤しい人であると知れ。

悪事を行っておきながら、「誰もわたしのしたことを知らないように」と望み、隠し事をする人、彼を賤しい人であると知れ。

他人の家に行っては美食をもてなされながら、客として来た時には、返礼としてもてなさない人、彼を賤しい人であると知れ。

バラモンまたは道の人、または他のもの乞う人を嘘をついて騙す人、彼を賤しい人であると知れ。

食事の時が来たのに、バラモンまたは道の人をことばで罵り食を与えない人、彼を賤しい人であると知れ。

この世で迷妄に覆われ、僅かの物が欲しくて、事実でないことを語る人、彼を賤しい人であると知れ。

自分をほめたたえ、他人を軽蔑し、みずからの慢心のために卑しくなった人、彼を賤しい人であると知れ。

ひとを悩まし、欲深く、悪いことを欲し、ものおしみをし、あざむいて(徳がないのに敬われようと欲し)、恥じ入る心のない人、彼を賤しい人であると知れ。

目ざめた人(ブッダ)をそしり、或いは出家在家のその弟子をそしる人、彼を賤しい人であると知れ。

実際は尊敬されるべき人ではないのに尊敬されるべき人であると自称し、梵天を含む世界の盗賊である人、彼を賤しい人であると知れ。

わたくしがそなたたちに説き示したこれらの人々は、実に賤しい人と呼ばれる。

生まれによって賤しい人となるのではない。生まれによってバラモンとなるのではない。行為によって賤しい人ともなり、行為によってバラモンともなる。

引用は以上


ここまで読んだ賢明な方には、さらに、賢くなるための秘訣を知って頂くことができよう。

この本の翻訳者は、中村元という方で、知っている人は知っていると思うけれど、この方は相当にすごい。というのも、岩波文庫に仏教の翻訳書がたくさんあることは、まあ、専門だからわかるとして、『中論』の解説本である『龍樹』を読むと、この方が、西洋の哲学者、ほとんど全てに精通していることが分かるのである。残した翻訳書の数や、研究の成果を考えれば、十分に「尊敬されるべき人」として間違いないであろう。

しかし、これが本当に尊敬されるべき人なのであろう。

というのも、「実際は尊敬されるべき人ではないのに尊敬されるべき人であると自称し、梵天を含む世界の盗賊である人、彼を賤しい人であると知れ。」の部分に関する巻末の註釈を読んでみると、このように書かれているのである。

「尊敬されるに値しない人が尊敬されているのは、盗人だと言うのである。実に厳しい教えである。」

もう一度強調しよう。

「実に厳しい教えである」

これが、自分以外の誰に向けた言葉であろうか。尊敬されるべき人でありながら、なお、自分は尊敬されるべき人ではないとするその姿勢、これに感嘆せずして、何に感嘆するのか。

易経にはこのようにある。

「天道は盈を欠きて謙に益し、地道は盈を変じて謙に流き、鬼神は盈を害して謙に福し、人道は盈を悪みて謙を好む。謙は尊くして光あり、卑(ひく)けれども踰ゆべからず。君子の終わりなり。」

満ちたるものは欠け、欠けたるものは満ちる、欠けていることこそ、満ちるための条件なのだ。

消費税再延期について

多くの人の意見を見ていると、私がずれているのだろうか?としか思えない。

景気判断もくそもないだろう。

そもそも地位のある人間が、一度決めたことをこう何度も覆していいはずがない。もう本当にバカにされているとしか思えなくて、かなり腹が立つ。次の参議院選挙は、自民党以外ならどこでもいいということで、必ず投票しに行こうと思う。

景気とか、アベノミクスの失敗とかどうでもよくて、政治家の皆様方には、国民に信を問う前に、朝起きた時でも寝る前でも、自分の胸に手を当てて、自分に信の徳があるかどうか問うて欲しい。


とにかく、なぜ、国民はこうもバカにされていて腹が立たないのだろうか。


腹が立つのももっとも、ということが分かるように例え話にしてみると、

町内会で、みんなで町内会長を決めて、町内会長にはそれなりの報酬と、それなりの地位とそれなりの権限が与えられていたとしよう。そして、本来ならあり得ないことだけど、町内会長にはみんななりたかったとする。

このような状況下で、町内会長は、自分の任期を延ばすために、みんなが投票に来れない「運動会の前日」を狙って、このようなことを言って、一度再選挙を行った。

「私は町内会長に一度は選ばれましたが、前の町内会長が決めた町内会費の値上げを延期しようと思います。というのも、前の町内会長と私との話し合いで、このような約束はあったからです。町内会の運営を見ながら、もしも、延期が可能ならば、2年までは延期していいということになっていたのです。けれど、町内会の皆さんの意向を確かめるために、念のため、(運動会の前日のみんなが来れそうにない時を狙って)選挙をします」

※(〜〜)は口には絶対に出さない本音のセリフ

ここまでは、事実であった。確かに、2年までは町内会費増額を延期できるということであったのだ。また、こうしてこの町内会長は、町内会長の再選というリスクを最低限にして、ちゃっかりと自分の任期を確実に2年伸ばしたのであった。

その後、さらに2年の月日が経ち、いざ町内会費増額が近づくと今度はこのようなことを言い出したのだ。

「(オレの任期はあと2年、町内会費の増額をするなんて、オレにとってマイナスイメージでしかない。オレが町内会長の間はどうしても増額をしないぞ。後に響くかもしれんしな、でもそんなことは口が裂けても言えないから、こう言うとしよう。)この前、市で町内会長の会合がありました。この時の話し合いで、他の町内会長も町内会費の増額を考えているらしいという話が出ました。しかし、どの町内会も、町内会費増額に反対の人が多く、実際には町内会費の増額をしないということでした。うちの町内会も、他の町内会に合わせて町内会費の増額は延期しようと思います」

みんなは思った。「町内会費を上げないだけで、行事の度にもっていくお金は増えているじゃないか。それに、このまま、町内会費を上げないとすると、子供会の行事がひとつできなくなってしまう。こども達がかわいそうだ。でも、町内会長が決めちゃったから仕方がない。ああ、あいつを町内会長にしたのが全ての間違いだった。口がうまいだけで、やっていることと言っていることがいつも違う。あんなやつの口車に乗せられていただけだったなんて、今、やっと分かった」

終わり


なぜ腹を立てている人がこうも少ないのか?


権謀勢詐なれば必ず滅ぶ(荀子より)

国家の宰相たる人が、権謀術策を好んで用い、権勢と勢力があるのをいいことに、詐術ばかり用いていれば、その国は必ず滅ぶこととなる。一人の破滅では済まない、国が滅んでしまうのだ。本当に責任の重大性を自覚して欲しい。

ローマ人盛衰原因論を読んで

ローマ人盛衰原因論は、『法の精神』で有名なモンテスキューの著作で、題名の通りのことが考察されている。

この本の難しいところは、ローマ史を既に知っていることが前提として書かれていることである。このために、日本人ならおよそ知らないような人物の名前も出てきて、とても読みにくい。とはいえ、幸いな事に、現代ではインターネットにウィキペディアという便利なサイトがあり、これを使えばなんとかならないこともない。

これは分析が書かれているだけなので、普通の歴史好きが読んでも全くおもしろくないであろうと思う。

時代的には、先のヘロドトスの書いた『歴史』の時代から、マケドニアアレキサンダー大王の時代を経たあたりのことが書かれているので、オリエント時代をウィキペディアで確認しておけば、『歴史』の続きを読んでいるようで大変に興味深く読める。

やはり、古典と言われるような名著を残した人の著作だけあって、その分析力は凄まじいと言える。


いろいろと面白い分析があって、ローマ史にもう少し詳しくなってから読んでみたいとも思うが、とりあえず、今日読んだ部分で興味深かったことをメモ程度に残しておこうと思う。

モンテスキューによると、平和な時代には、英雄は現れないと言う。つまり、平和な時代、今の日本のことであるが、では、既に力のある者が強固に自分の地位を保ち、既に力のある愚人でもそもそもが平和だから世の中を治めることができ、既に力のある貪欲な者がさらに贅沢を求めても何の弊害も起きないと言うのだ。つまり、無能な人間が自身の地位を保つだけで、有能な人間が現れてくることはないと言うのである。

確かにその通りである。

賢人君子がありがたいのは乱れを治めるからであり、賢人君子を人が求めるのは危機が目の前に差し迫るからであり、賢人君子はもとより清貧に甘んじるのであるから平和以上のことは望んでいないのだ。だから、動乱の世にこそ、賢人君子は、乱れを治め、人から求められ、平和を実現するのである。

なんとも皮肉なことである。

私の知る限りだと、小人というのは、危機が差し迫るまで賢人君子の力を当てにしない。そればかりか、賢人君子の真意を理解できていないことにも気が付かずに自分の方が賢いと思い、挙句の果てには欲と利己愛から賢人君子の忠言を聞き入れずに、結局は自滅するか、さらに乱れを大きくしてしまう。

西郷隆盛は、その著書『遺訓』に、「賢人君子は、小人を助けぬものとぞ知れ。小人は忠言を聞けば怒るればなり。」と書いているが、実にそのとおりなのである。

さしもの賢人君子も、不幸せを願っている人を幸せにすることはできない。

ヘロドトス『歴史』を読み終わった

ヘロドトスの『歴史』を読み終わった。

おもしろかったが、これについては、既にあると思うけど、各個人に注目して編集し直すともっと面白く読めるものだと思う。

というか、これを題材にした作品は結構あって、スパルタの王、レオニダスがペルシアのクセルクスを迎え撃つ部分は、映画「スリーハンドレッド」になっていて、これについては既に見たことがあり、映画としても面白かった。アクション&ファンタジーが好きな人は見てもらうといいだろう。


とはいえ、面白い、面白くないは、所詮は凡人の見解でしかなく、いやしくも賢人君子たらんと思う者ならば、それ以上のことを読み取られねばなるまい。

それで、私が一番気がかかりになったのは、信託についてのことである。ヘロドトスはかなり「信託や神の意向」を重要視していて、これは論語などで言うところの天命のことである。

また、一般的に徳と言われているもの、つまりvirtueも重要視していて、アテナイの人でペルシア戦争の英雄とされ、サラミスの海戦の立役者として社会科でもその名が知られるテミストクレスについては、単なる策士だったとして結構こき下ろしている。

あるいは散逸があって本当は結びではないかもしれないが、結びの一節も、称賛に値するものであろう。というのも、ペルシアの初代の王であるキュロスに関するこんな逸話が書かれているのだ。
キュロスの臣下のひとりが、キュロスに対して
「王よ、われわれは多くの地を征服しました。このペルシアの地は、地形も悪く、環境も悪く、住むのには適してはおりません。われわれは、今こそ根拠地をもっと環境の良い所に移しましょうぞ」と言うと、キュロスはこう言ったのだ。
「われわれがこのような偉業を成し遂げたのは、この地味の悪いペルシアの地に住んで、体を鍛え、また知恵を鍛えているからなのだ。環境の良い所に移ったら、すぐに堕落して、たちまちにしてペルシア民族は他民族に隷従することになろうぞ」と。

ペルシア戦争で負けた時の王は、キュロスから数えて四代目のクセルクスであり、その後、その遠征軍を担ったのは彼の親近者であるマルドニオスであったが、ギリシア軍がペルシア軍の本陣を占拠した時、時のスパルタの王はこのように言ったらしい、「ペルシア人とは実に滑稽なものよ。このような贅沢な暮らしをしておりながら、何の奢侈品もなく、質素な暮らしに甘んじておるギリシアを征服しようと思ったのだからな」と。

我が日本にも、これと同じような教訓がある。「憂患に生じて安楽に死するを知る」と。『孟子』より


また、戦争の引き金は必ず後に示すどちらかのことである。つまり、当時は王政であったこともあろうが、戦争の引き金は、誰かの怨みか欲が発端なのだ。これは他の歴史書、例えば史記でも共通していることである。賢人君子たらんとするものが、欲を遠ざけて、怨みを恐れるのはこのためである。またその発端となった、欲人、怨人がろくでもない生涯を送り、みじな最後を遂げることは言うまでもないだろう。