謙遜遠慮の利点

謙遜遠慮には数々の利点がある。というか、私の考えてみたところ、どのように考えても自分が得をすることしかない。

すべての場合について場合分けをして考えてみた。


まずは、君子たるべき人や、賢人として何の差支えもない人に対して、

1.謙遜遠慮の態度を取った場合
2.傲慢不遜の態度を取った場合

を考えてみよう。

1.君子たるべき人や、賢人として何の差支えもない人は、もとより謙遜遠慮の人である。だから、このような人に対して謙遜遠慮の態度を取れば、彼は自分のことを同じく賢人であるか、あるいは士君子たるべき人と認めるであろう。士君子たるべき人に、士君子たるべき人と思われることにどんな害があるだろうか?もしもあるのなら聞かせてもらいたいものである。

2.君子たるべき人や、賢人として何の差し支えない人に対して、傲慢不遜の態度を取れば、この人から相手にされないのは当然である。というのも、そういった人は、謙遜遠慮を愛しているのであり、このような態度が出来ない人に対して共感することはないからである。ならば、傲慢不遜の人を相手にしてやろうとは思わない。そればかりか、このような人はもとより力のある人であるから、傲慢不遜の態度が過ぎて、この人に危害を加えたらどうなるだろう。いかに君子や賢人と言えど、自分に危害を加える人間は敵とすることはある。このような人から敵として認識されてしまえば、自分の足元をすくわれた上に、上から叩きのめされることになる。もとより彼は、士君子たるべき人で、立派な能力をいくつも持っているのだから、この人が敵に対して行う処置は、必ず想像を絶するようなものであろう。ならば、味方ができないばかりか、強敵を自分で作り出してしまうことになる。


では、小人として何の憚りもなく、愚鈍として何の差支えもない人に対して、

3.謙遜遠慮の態度を取った場合
4.傲慢不遜の態度を取った場合

を考えてみよう。

3.小人として何の憚りもなく、愚鈍として何の差支えもない人は、自分が持ち上げられれば喜ぶし、そもそも力ある人が敢えて行う、謙遜遠慮という一見すると卑屈な態度の真意を知らない。ならば、彼らは、卑屈な相手を見て調子に乗り、卑屈な相手を侮り、心に油断と怠慢を生じ、かくしてさらに小人への道を突き進み、愚鈍の道を広くするであろう。仮にこの人が自分の敵となった場合、彼らがさらに弱くなった状態で自分の敵となることは目に見えている。敵が弱くなれば得をするのは自分である。また、この人はそもそも力のない小人愚鈍の人であるから、当然に自分がこの人から受ける恩恵などそもそもない。ならば、自分の利益が減ることもない。ということは、敵が弱くなるという利点はあっても、自分の利益が減るというデメリットはあり得ないことになる。

4.小人として何の憚りもなく、愚鈍として何の差支えもない人は、人の成功を羨んで妬み、その人の足を引っ張ろうとするものである。ならば、こういった人に対して傲慢不遜の態度を取れば、彼に対して羨みと妬みのエサをやり、彼に対して逆恨みのタネをまくようなものである。もとより、謙遜遠慮の態度を取っていれば、彼からこのように足を引っ張られることが無かったのである。ならば、傲慢不遜の態度を取ったことにより、余計な敵を作ったことになる。味方は一人でも多ければ心強く、敵は一人でも多ければ不利である。ならば、傲慢不遜な態度を取ることは、何の利益も生み出さないばかりか、不利な状況を作ることはあるということになる。


論語には、「周公の才の美ありとも、驕かつ吝ならしめば、その余は見るに足らざるなり」(例え、名宰相として名高い周公旦のような才能があったとしても、その人が傲慢不遜で、しかもその自分の才能を惜しみなく人に与える気がないならば、他の部分は全くもって見るにも値しない」とある。

これだけ謙遜遠慮の利点が語られ、傲慢不遜の不利が語られても、人は傲慢不遜の態度を取るものである。これは主に自己是認欲求や自己顕示欲から、起きる行動であるが、気をつけなければならない。

クロイソス

ヘロドトスの歴史という本を最近は読んでいる。

これはもう何年も前に読もうと思って購入したのだけど、途中で読まずに放ってあったものだ。なんとなく思い出して読むことにしてみた。

この歴史の中のかなり前半にクロイソスという登場人物が出てくる。

このクロイソスは、リディア、今で言うところのトルコ西部の王で、当時の首都はサルディスと呼ばれるところであった。

クロイソスはサルディスで栄華を極めていた。また、非常に信心深く、アテナの神殿やその他いろいろな信託所に相当数、現代日本の円で例えれば、100億円分(かなり適当)にもくだらない奉納物を納めていた。

このように栄華を極めていたクロイソスは、ある時賢者として名高いソロンが自国を訪れた時に、この賢者をして自分の栄華と幸福を見せつけようとして、彼に自分の宮殿をくまなく見せてから言った。

「ソロンよ、どうじゃ、この世で一番幸福な者は誰か?」と、

しかし、ソロンは、一向にクロイソスという名を出さず、既に死んだもののうちで、名誉の死を遂げた者ばかりの名を挙げるだけであった。しびれを切らしたクロイソスが、ソロンに幸福とは何かと問うと、ソロンは言った。

「人間は死ぬまで何が起こるか分かりませぬ」と。

ところで、クロイソスには二人の息子があった。一人はものをしゃべることができない、いわゆる不具者であった。これに対してもう一人の息子は、見る目にも立派で、同輩から抜きん出る能力を備えた者であった。

クロイソスは、ある日、この立派な息子が槍に貫かれて死ぬ夢を見て、大層心配となり、この息子を宮殿から出さぬように手配をした。しかし、この夢は正夢となってしまう。巨大イノシシ退治に出たいと言った息子に、「イノシシは槍を持っていませんから、私が死ぬことはないでしょう」と説かれ、これを許したのだ。そして、あろうことか、彼の従者の持つ槍が彼を殺してしまうのだ。

しかし、クロイソスの不運はこれでは終わらない。

ペルシアの勢力が盛んになり、このことについて信託所に問うてみると、ペルシアに攻めこめばペルシアを滅亡に追い込める”とも意味の取れる”信託を受け取るのだ。クロイソスは入念に信託所に奉納を重ねてすると、ペルシアへの遠征軍を編成して、出立する。

だが、戦況は思わしくなく、結局は首都サルディスでペルシアの軍勢を迎え撃つこととなる。サルディスは堅城であったが、一箇所だけ崖で守られた所があり、ここの兵は手薄であった。ひょんなことから、ここが実は城の中に入る簡単な経路であることがペルシア軍に知れ渡り、一気にサルディスは占領されてしまう。

ペルシアの時の王、キュロスは、配下にクロイソスだけは殺さずに連れて来い、と命じていたのだが、ペルシア兵がクロイソスの顔を知るはずもない。

クロイソスは、ペルシア兵の凶刃に果てることとなった、かとおもいきや、この時に、例の不具者の息子、今までに言葉を一度も発したことが無かった、が「これはクロイソスだ、殺してくれるな」と叫んだという。

この言葉に気がついたペルシア兵は、クロイソスを捉え、キュロスの前に連れ出した。

結局、クロイソスは、キュロスによって焼きつくす犠牲にされることになり、膨大な量の薪の上にくくられ、殺されることとなる。

薪に火がかけられ、業火がクロイソスを覆い始めると、クロイソスはソロンのことを思い出し、「ソーローン! ソーローン!」とその名を何度も叫んだ。

これを聞いたキュロスが、不審に思い、クロイソスを解き放てと命じた。とはいえ、火の手はもはやクロイソスを覆っている。このとき、不思議なことに雨が降り始め、遂にクロイソスはその生命を繋ぐこととなる。

この後、クロイソスはキュロスに仕えることとなり、その条件として、信託所に使いをやりたいと頼み込んだ。というのも、神は自分を騙したし、自分は信心深かったのに、どうしてこのような目に遭わなければならないのか、神に問い質そうと思ったからである。

こうして、クロイソスは神からの返答を聞くのであるが、その内容はこのようなものであった。

「信託に関してはおぬしが勝手に勘違いしただけじゃ、あの信託はどちらが亡ぶかという所にロバの例えがあったが、それをおぬしは読み違えた。ロバとはペルシアのことなのじゃ。それにそもそも、おぬしのリディアが亡ぶことはもう決まっておったことなのじゃ。本来なら、三年前に滅ぼす所を、おぬしが信心深かったから、今の時期まで遅らせたのじゃ。もうひとつ言えば、おぬしも死ぬはずであったが現に今、生きておるであろう」

おわり

既に映画としてあるような気がするけど、映画とかの話としてとても面白いだろうなぁと思う。

宜なるかな

昨日、西郷隆盛の遺訓というのを読んでいたら、小人(つまらない人、取るに足らない人)は、開闢以来10人に7、8人と書いてあった。

つまり、話になる人が、10人中2、3にいれば、まあそんなもん、ということになる。私の経験からも、まあ、そんなもんと思う。

そのうちでも、忠義の士とか、節義の士とか、克己心があって、しかもそれを実行に移せる人は、そのうちの何人かということになるから、私の定義する士たる人、というのは、多くても100人に1人、ヘタすると天才の割合と同じ、万人に1人ということになる。

孔子が「聖人はこれを見ることはできない、まあ、君子を見ることができれば良いほうだ」と言う場面が論語にあるけど、いつの世もそんな感じだったんかなぁ〜と思った。

西郷隆盛もほとんどの人が小人だ、と言っているわけだし、それは間違いないことであろう。つまり、私も含めて大多数の人が小人なのだ。

これを見て自分はどうだろうと少しでも思った方は、小人を脱して士を目指していただきたい。

メモ程度 文明論の概略

今日、福沢諭吉の文明の概略を読んでいたら、

「日本の人民は国事に関せず」とあった。
そうかもな〜と思った。

文脈から行くと、まずは、西洋の歴史が詳しく解説される。詳細としては、西洋では昔から「フリーシティ」があったり、宗教でもキリスト教には新しい宗派があって、それが国政も動かしたり、あるいは十字軍遠征によってアジアの技術に刺激された西洋人が、商売を行ったり発明したりと、「人民」主導で起こることがいろいろあったとなっている。

こうした後に、次は日本の歴史が解説される。詳細としては、日本には、天皇、源平、足利、織田、豊臣、徳川と、支配者は変わるものの、新井白石先生の歴史書にも、住民から何か運動が起こったということは書かれておらず、結局は、支配者が変わっただけで、何も変わっていない。常に、治者と被治者の二つの立場しかない、とある。このいい例として、豊臣秀吉は、確かに百姓出身であるけど、百姓の地位を上げるようなことはなく、ただ百姓という地位を捨てて、治者になっただけで、まったく人民の地位を上げなかった、と言うのだ。さらにダメ押しをするかのように、日本には支配者が代わってそこの住民が抵抗し、何らかの利益を得ようとしたことがない、と書かれている。

確かに、イギリスでは、マグナカルタという取引のもとに、政権が交代したことがあったし、言われてみれば、確かに日本は、治者・被治者という立場そのものがどうかなったことはいかもしれないと思った。ただ、これは福沢がうまく事実を紹介しているからそう思えるだけで、西洋と日本の違いはそこまではなく、若干のもののような気もする。

まあ、でも、この福沢諭吉の理論は間違っていないとは思う。なぜなら、現在の国会であんな誰が聞いても「はぐらかし」の「本音隠し」としか思えないような答弁を安倍首相がしているにも関わらず、現在の内閣支持率がなかなか下がらないからだ。これは「日本の人民は国事に関せず」という二千年近くにわたる日本人の悪弊が原因だと考えれば、確かに分からないでもない。

これは、メディアも悪いし、国民が悪いことも関係はしている。というのも、今現在「あの政治家はいいのか悪いのか」というのは、ほとんどテレビによって判断されるからである。しかも、切り抜きのイメージ報道だ。それに、もし仮に、聖人賢人と言うべき政治家がいたとしても、こういった人は、凡庸な人からすれば、説教臭くて小難しいオッサンでしかないから、何の面白みもなく、当然にメディアに持ち上げられることはない。

その上、「日本の人民は国事に関せず」という悪弊から、国会中継を聴く人は少ないとすると、いろいろと話の辻褄があってくる。

そう考えてくると、一番重要なことは、国民の教育だろうとなる。なぜなら、国会中継を誰も聴かない理由のひとつが「難しくて意味がわからず面白くないから」である。意味が分かれば、聴く人も出てくるだろうが、これにはしっかりした教育が必要である。しかし、このことは、2500年以上前にプラトンが既に言っていることで、「民主主義をやると絶対に人気投票になる、というのも、民衆というのは楽しいことを好んで善いことを嫌うからだ、民主主義の政治は必ず堕落する」ということなのだ。

とはいえ、そのために、文科省にキャリアの優秀なエリートたちが在籍しているはずで、彼らは仕事をしていないのか?という話になってくる。

まあ、プラトンの言うように、民主主義は無理なのかもしれない。

原因が分かった所ですぐにどうにかなる問題では無いので、この辺にしておこう。

あけましておめでとうございます


毎年恒例の四文字熟語抱負を今年も書いた。

今年は『三略』からとって「清静平整」ということにした。


「清く静かにして平らかに整う」ということで、
意味は、「心が清く澄んでいて静かであるならば、何事にも公平に対処でき全てのことが整い治まる」
という意味になる。


清というのは、透き通っていることであり、これが公平な対処につながる。逆に濁りがある、つまり、欲や我執によって心が濁っているなら、公平な対処ができるはずもない。
平の字は自分の名前、平田の平であるけど、この字が平凡というような感じで、昔は、あまり好きでなかった。しかし、荀子の至平という言葉を知っていから好きになった。つまり、平らかとは、公平に平等に安平にという意味であるのだ。

静かということは、波風が立っていないという意味である。静かであるならば定まるとは、大学の一節であるけど、静かであるからこそ、急なことにも対処でき、また、平常心というものもある。
逆に静かでなければ、慌ただしいということであり、自分の心が慌ただしいのに、自分の周りのことが静かになるはずもない。だから、静かであるならば整い、整うのならば治まるということになる。

三略』には、「能(よ)く清らかにして能く静か、能く平らかにして能く整い」(上略)
「民を治むるに平を使い、平を致すに清以(も)てすれば、則(すなわ)ち民は其(そ)の所を得て而(しか)して天下は寧(やす)し。」(下略)とある。


今回は上の「清静平整」を書くときに手がふるえてしまい、「清静平整」ではない字しか書けなかったけど、今年の年末には、文字通り「清静平整」な字が書けるようになりたい。

ネトウヨ(と呼ばれそうな人たち)とフジと産経の謎

この記事⇒http://netgeek.biz/archives/62225
のお陰で謎が再燃してしまった。

下の記事自体は数カ月前に書いたもの。

もうかなり前のことになるのだけど(上に出した記事によって現在進行形になった)、ネット右翼が、さんざんにフジテレビをコケにしていた時があった。理由は相変わらず下らない理由で、韓流ブームを作るために大して売れていない韓国アイドルをゴリ押しで起用していた。というものだった。

しかし、フジテレビはフジサンケイグループで、ネットウヨクの大好きな産経新聞と同じ系列の報道機関である。経営者(株主)が同じなのに、全く別の思想に基づいた報道がなされるはずはないと思うのだけど、これはどういったことだったのだろうか。

もちろん、思想は同じでも、経営戦略は違う可能性があるから、普通にどちらの企業もただの営利企業だと思えば別に納得出来なくもないことだ。

だけど、ネットウヨクと思われる人たちは、このこと、つまり、フジテレビと産経新聞の関係に全く無頓着な様子で、同じ人がフジテレビをコケにして、すぐに産経新聞を褒め称えるということもしばしばあった。

面倒くさいので、そのことについて関係者に質してみようとは思わなかったけど、あれはどういったことだったのだろうか?

あまりにも謎過ぎて、もう数年は経過した今でも、フジサンケイグループの、あの「○に三本毛の生えた様なマーク」を見ると、とても不思議な気持ちになる。ちなみに今回は雑誌「正論」の表紙と思われる写真にそのマークがついていたので、このことを思い出してしまった。

まあ、そもそも俗にネットウヨクと言われるような人たちは、自分で考えずに人の意見を鵜呑みして、流行には流されるけれど、本当は何も考えていない人たちなんだろうなぁとは思う。でも噂の源はどこだろうとか考えると、かなり謎は残る。

まあ、謎は残ったままだけど、無理にまとめると、何にしても思い込みはいけないなぁ。とは思う。

新三本の矢は並の政策

先日、安倍首相の総裁選が終わり、記者会見があった。

新たな3本の矢として、

1)希望を生み出す強い経済
2)夢を紡ぐ子育て支援
3)安心につながる社会保障

という方針を演説した。

テレビで見ていたのだけど、私の考えとして、1については経済(資本主義)という枠組自体に変革が必要と思っているので、無評価とし、2についてはまあまあいいけど、賢者の考えることではないと評価し、3についてはどの政権もどの政党も言うことなので当たり前のことと評価した。

総じて、並の域を超えていないということである。

1については研究中、2については後で述べ、3については姦人(ずるいことをする人)が出ないように、ということで、私がこれらを並と判断して、それ以上の了見を心得ているという証左とするが、2について述べることでさらにこの証左としよう。


私は決して賢者ではないが、2について賢者ならどうするだろうか。

出生率を上げるために、子供を育てやすい環境を作るとは確かにその通りである。しかし、これは出生率を上げるための根本的な解決にはならないと断言する。これは間違いない。というのも、現代の若い人が子供を生まない理由は、子育てがしにくいというものではないからである。

いかに海よりも深く子供を愛し、空よりも高く子供の成長を望む親といえど、子供を生む前には、そのような感情は持ち合わせていない。なぜなら、その対象がまだ居ないからである。現存もしない人を愛して、憧れ、これによって自分の行動方針を決める人は、例えるなら、銅像に恋した男である。こんなことをする人はほとんど居ない。

だから、まだ居もしない子供の成長と、その世話を憂えて子供の出生を躊躇するような人は、ほとんど居ないのである。

そもそも、子育てしやすい環境ができて、子供を生もうと思う人は、子供の好きな人だけだろう。子供をうっとおしいと思い、可愛くもないと思い、あるいはなんとも思わない人は、この政策が実行されたからとて、絶対に子供を増やそうとはしない。

それに、自分以外の子供、子供全般を好きな人は、せいぜい全人口の1割程度であろう。見れば確かに可愛いが、とにかく育てたいと思うほど好きな人がほとんどいないことは言うまでもない。

だから、そもそも子供を好きな人が少ない以上は、子育てが支援されたからとて、子供は増えないのである。


ならば、出生率があがらない本当の理由とはなんだろうか。

一言で言ってしまえば、現代において、子供が多いことは、親にとって何のメリットにもならないのである。だから、夫婦の愛の結晶として一人いれば十分だし、世間体の問題上一人いれば十分だと思うのだ。はっきり言って、それ以上は自分に何のメリットももたらさない。これが現代の夫婦の本音だ。

銅像に恋もしていないのに、この銅像が本物の人間になり、自分に何の利益もないということならば、よほど奇特な人でない限り、銅像を人間にはしない。いかに補助が出るからとて、その銅像を人間にはしない。


では具体的に、何が問題なのか。

以下のURLを見て頂くと分かるのだけど、なんと、現在親と同居したいと思っている「子供」は全体の1割しか居ないのである。つまり、「子供」を苦労して育てても、一緒にいることさえ嫌だと思っている「子供」が10人中9人も居るのである。

なんたることか、子供は親に何のメリットももたらさないどころか、嫌ってくるのである。

http://news.panasonic.com/press/news/official.data/data.dir/2014/01/jn140108-4/jn140108-4.html


さらに絶望的なアンケート結果をご紹介したい。これについては、ラジオかテレビで聞いて、その詳しい数値を記した記事などは見つからなかったのだけど、なんと、世界中でどの国を探しても日本ほど「親の面倒をみたいと思っている子供が少ない国」はないのである。

記憶なので曖昧だし、調査対象が何歳から何歳ということも分からないのであるが、

親の面倒を見たいか、という質問に対して、

「絶対に面倒を見たい」と答えた子供は、日本の子供の30%しかいないのである。これが諸外国とくらべて如何に恥ずかしい数値かというと、「孝」の文字さえないアメリカでも50%で、土産物をメガネにして、事故った新幹線を死体ごと埋めてしまう中国がそれ以上の数値を叩き出して首位なのである。

もちろん、日本のこの情けないアンケート結果の数値は、世界最悪である。

このような状況で、つまり、自分の面倒をみてもくれず、挙句の果てには厄介者扱いするような子供が多い中で、誰が「もう一人子供がほしい♪」などと言おうか?そんなことを言う人は実に奇特な少数の人だけである。

だから言うのだ「子育て支援があっても子供は増えないし、根本的な解決にはならない」と。



では、この問題を解決するためにはどうしたら良いのだろうか?

答えは簡単だ。

親と同居している世帯に補助金を出して、親の面倒をみている子供を表彰して、子供が親の面倒をみやすい環境を作った企業には補助金を出すのだ。もっと言えば、営利の介護ホームには高い税金を課すのだ。簡単にいえば、親孝行を奨励するのだ。

このようにすれば、子供たちはこぞって親の面倒を見るだろう。そして、それを実践した子どもたちは、老後に子供が当てになることを確信し、一人でも多ければそれだけ老後が楽になると思い、自分を必要としている人が増えると思い、こぞって子供を産み育てるだろう。

それが何か?銅像の生きやすい環境を作って、経済と称して子供を親から引き離して働かせ、挙げ句の果てには親の面倒を代行するところに補助金を出すとは?やることがちゃんちゃらおかしいとはこのことである。

私は決して賢者ではないが、それでもこのことは分かる。

政治家と言われる人は、少なくとも私よりは地位があり、少なくとも私よりは人望があり、少なくとも私よりは賢いはずである。なのに、その私よりも劣る並のことを考えて、それで満足してしまっている。これはなんという悲劇であろうか?