12.荀子 現代語訳 修身第二 五〜七章

五章

 志と思いが定まっているのならば富貴にさえ驕り、道義の重さを感じることができていれば王公さえ軽んずる。それは、内を省みて外の物と比べた時、外のものが軽いからである。(●志意の脩まれば則ち富貴にも驕り、道義の重ければ王公をも軽んず。内に省みて外物の軽ければなり。)

 古伝に、君子は物を使い、つまらない人は物に使われる(●君子は物を役し小人は物に役せらる)とあるのは、このことを言っているのだ。

 身体は疲れ果てても心が安んずるのならそれをして、利が少なくても義が多ければそれをする。乱れた君主に仕えて栄達することは、貧窮した君主に仕えて道に順がうことには遠く及ばない。

 だから、良農夫は大水や干ばつがあるからと言って耕すことをやめないし、良商人は役人が来るからと言って商売をやめることはなく、士君子は貧窮しているからと言って道を怠ることはない。

六章

 容貌は恭しくて慎みが感じられ、心も真心があって信に足り、用いる方法は礼義であって、その心は仁と愛。こういった有様で天下を行き来するならば、たとえ野蛮極まりないところに行ったとしても、貴ばれないということはない。(●体は恭敬にして心も忠信、術は礼義にして情も愛仁。かくて天下を横行すれば四夷を困むと雖も人は貴ばざることなし)

 苦労があることには先を争い、楽なことには先を譲り、正直で誠があり、道を守ってなにごとにも気が効く。こういった有様で天下を行き来するならば、たとえ野蛮極まりないところに行ったとしても、事を任せられないということはない。

 容貌はふてぶてしくて偉そうで、心も勢いだけで詐り多く、用いる方法は粗野なもので、その精神は行き当たりばったりの思いつき。こういった有様で天下を行き来するならば、たとえどこへ行ったとしても、賤しまれないということはない。

 苦労があることには怠けて逃れようとし、楽なことにはどんな手を使ってでも先を争い、道に違うことをはばからないで気が効かず、決められた仕事さえできない。こういった有様で天下を行き来するならば、たとえどこへ行ったとしても、捨てられないということはない。

七章

 道を歩くときに肘を拡げるのは溝に落ちないようにするためではない。首を下げて歩くのはぶつかるのをよけるためではない。目があった時に先に目をそらすのは恐れおののくからではない。してみるに、彼の士は一人その身を修めて、俗世間の人に無用の罪を得まいとしているのである。(●然らば夫の士は、独り其の身を脩めて、以て罪を比俗の人に得ざらんと欲するなり)


まとめ
http://d.hatena.ne.jp/keigossa/20130104/1357283885


解説及び感想

■五章で修身は常に行うべきことを述べ、六章で修身の効用を述べ、七章でについてその意味は理解し難いが、五・六章の意味を総括し、修身が実害から遠ざかるためだけのものではないということを言っているのだろう。

■言志録121より「士は独立自身を貴ぶ。熱に依り炎に附くの念起こすべからず。」士は独立自身を貴ぶのだ。権勢や富貴に媚びたりおもねり入ったりしてはならない。

■七章の道を歩く時の礼は、現在ならば、人ごみの中では無用な疑い(ちかんやすりなど)を受けないように腕を胸より高い位置に維持していること。人とぶつかりそうなときには先に道を譲ること。誰かと目があってしまった場合は先に目をそらすこと。と言えそうだ。道を歩くだけでもこれだけの気配りが必要なのである。いわんや他事をや。である。