労働とは何か

 最近、この命題が重要であるなと思い始めた。

 人間が社会に関わるほとんど唯一の接点はこの「労働」である。

 この労働と言う言葉をどう定義するかによって、社会と人間との関わりが、そして、社会の一面である経済というものの全貌が見える気がする。新しく訪れる社会では、恐らく、この「労働」の概念が変わっているに違いない。

 私の理論では、今の総労働量でできる物的富(供給)が、人間の必要としている物的富(需要)を上回ってしまっていることが現在の「経済と言われているもの」の最大の欠点であるということになっている。だから、失業者の増加が後を絶たないのである。そして、この状況は、人間の効率追求・利潤追求という貪欲を根本としている。そして、この貪欲が資本の効率化を目指す資本主義の正体であり、神の見えざる手であるのだ。だが、この神の見えざる手も、物的富がもたらされたことにより変質してきている。物的富が満たされた今、別の富、それは知的富である可能性が高いのだけど、が、新しい神の見えざる手となって社会を形成するのかもしれない。

 人間には労働欲求(正確には社会に関係することへの欲求)というものがあるように思う。それは人間が社会を形成して生きてきた生物であることに由来しているのかもしれない。私自身、半年ほど何も働かず、また学校にも行かず生活してみたが、それはそれで、かなり鬱憤のたまる生活であった。だから、効率化により、少ない絶対的労働量で、必要以上の物的富がもたらされたからと言って、総労働量が減ることもおかしな話なのである。人間はなんらかの労働をしたい、何らか社会に関わりたいという欲求を満たそうと思うからである。だから、この労働の取り合いが起こり、たとえ、ベーシックインカムのような社会制度が取り入れられたとしても、失業者(働きたいのに働けない人)が出てくるのではないかと思う。この理論においてベーシックインカムには正当性がないから、それは実現可能と言われつつも決して実現されないのではないかと思う。

 だから、この労働という概念が何らかの変化をする必要があり、それを知るためには、労働が何であるのかを知り、またその労働を為す人間がどのような欲求に基づいて労働をするのかということ、つまり人間は何であるのかということを解明しなくてはならない。また、資源には限りがあるから、それが、基礎となるべき全人類の物的富とどのように関連していくのかということも考慮しないとならない。

 アダムスミスが終わったら、また資本論を読んでみる予定なので、またそのときに考えよう。まあ、先は長いのだけど。