労働の対価としての貨幣価値とそれに関する意識について

 今日、ふと思ったのだけど、お金とは労働の対価である。極論すると、労働そのものと言ってもいい。ただし、この感覚に至るためには、いろいろな制約条件があると思う。

 まず、一つ目、労働をして、その対価としてお金、つまり賃金を受け取ったことがあること。

 二つ目、自分のお金を使うとき、このお金は自分で稼いだもので、それを使うのだという感覚を感じたことがあること。

 三つ目、そのお金を得るためにある程度苦労をしていること。(例えば、先日の王子製紙のボンボンとか、まさにこの感覚が欠落していたと思われる。)

 四つ目、これらのことを通して労働とお金の関係について考えたことがあること。

であると言えるだろう。


 このようなことを列挙して、何が言いたいのか。

 それは、お金が何であるのか、また、お金に関する問題がなぜ起こるのかということについて言いたいことがあるのだ。お金が労働そのもの、もしくは、その化身であると考えるならば、お金に対する「敬」(大事にする気持ち)が生まれてくるはずである。その感覚があれば、当然、お金に対する接し方も慎重になる。お金に対して、この「敬」の一字を皆が皆背負っているならば、昨今のお金に関する問題の半分は解消されるだろう。それが、特に支配層(資本家層)にないから、いろいろな問題が起きているとも考えられる。

 こんなことを考えたのには、きっかけがある。日本の製造業の利益率が3%程度であるのに対して、海外の製造業の利益率は35%もあるらしいという情報を得たのだ。

http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/natnews/interview/568899/

 これが本当であったとすると、そこにあるメカニズム次第では、私の考えを大きく修正する必要がある。そのためにいろいろ詳しく考えてみた。その結果得られた結果が上のものである。

 まず、日本と海外の違いを考えてみると、海外では、質の高い労働には、それに見合った賃金を「払うべきである、または、払わなければならない」という感覚があると思われるのに対して、日本には、そういった感覚が乏しいと考えられる。

 では、なぜ、そのような違いが生じてしまうのか。

 労働=お金、この方程式を考えた時、「チップ」という習慣は、この方程式を身にしみこませる上で、非常に有用である。というのも、「チップ」の金額は、それを払う自分自身で決めるし、それはまさに労働の対価として渡される。この習慣があることによって、海外には、日本よりも「いいものはいい値段で買う」という感覚があるのであるし、「いいものはいい値段で売る」という感覚があるのではないかと思ったのである。また、どうして「チップ」という制度があるのか調べてみると、日本と海外の値段の付け方の違いが根本的に何に起因しているのかわかるかもしれない。

 あと、終身雇用制も、労働とお金の関係を考える機会を減らしているようにも思う。詳しくは分からないのだけど、海外、アメリカなどでは、半年か一年に一回、自分の給料を雇主と交渉して決めているとか。終身雇用制では、労働の価値について考える機会が減るばかりである。

 私が、資本主義や、市場競争原理に感じている不信感が、すべてここにあるのなら、資本主義を覆す必要はなくなる。なぜなら、私の持つ不信感は、日本特有のものであって、世界を支配している市場資本主義とは関係ないということになるからだ。また、日本特有のおかしな常識や意識が、たまたま市場資本主義と相性が悪いだけと言えるかもしれない。しかし、五年前、私がわざわざヨーロッパまで行ったのは、私が社会に感じている閉塞感は、日本特有のものであるのか、それとも先進国共通のものであるか見極めるためであった。そのときの、私の海外体験で、社会の閉塞感は先進国共通のものと思われた。また、外人も日本人も、大して違わない、別に外人が精神的に発達しているわけでないということもまた、感じてきたのである。

 皆が労働とお金の関係を正しく認識することで、市場資本主義社会は、延命することはできるだろう。しかし、市場資本主義に欠陥があろうがなかろうが、これから訪れる社会とその社会制度では根本的に相性が悪いような気がする。つまり、市場資本主義の欠陥を追っているだけでは、新しい社会は見つからないということも言えると思う。また詳しく考えていきたい。