アダムスミス 道徳感情論 要約 1
第1部 行為の適宜性(プロプアテイ)について
第1編 同情simpathyについて
他人の悲しみを、compassionを通して、勝手に想像することがsimpathyである。同情は誰にでもある。また、同情の程度には、個人差があり、理由付け、根拠付けも関係している。理性を捨てていることにすら気付かず、それについてなんとも思わない人もいれば、それを観察して、彼に理性がないことを恥と同情する人もいる。同情のうちでも、死への同情は誰もが最も同情する対象である。この同情が故に、人は死を知り、また恐怖することになる。
「死はある個人にとって幸福に対する大きな毒であるが、人類の不正に対する大きな抑制でもある。死への恐怖は、個人を悩ませ苦しませると同時に、他方では社会を防衛し保護するのである。」
感想
すごい明晰に、またすごい細かいところまで、人の感情を観察し、解析していると思う。
第2編
第1章 相互的同感の快楽について(about some pleasure caused by mutual simpathy)
同感は、歓喜を活気付け、悲嘆を軽減する。しかし、後者による快楽の方、前者による快楽より、ほとんどの人にとって大である。だから、人には、一般的に自分の不快の念の方を強く伝えたいと思うのであるし、言葉を発する時は圧倒的に自分の不快を伝える感情やafectionsに起因している場合の方が多い。またこの故に、自分の友人の敵は、自分にとっての敵となることが期待されるし、同じ敵・同じ悲嘆を共有することが友人であることの条件とも言える。
感想
確かにそうだ。喜びを共有できる人より、悲嘆を共有できる人の方が自分にとっても価値がある。それに、自分が何か発言したいと思うときは、その悲嘆の気持ちに起因する時、不満を解消するためにするときの方が圧倒的に多い。
第2章 われわれが他の人々の適宜性または不適宜性を、それらがわれわれ自身の諸意向と協和しているかしないかによって、判断するやり方について
観察者と非観察者の、同じ対象に対する感情の大きさが甚だ違うと、それを不適宜だと判断する。しかし、経験に基づいた諸規則によってそれが補われる場合がある。
観察者が、何者かのemotionsとaffectionsの是非を判断する時は、同時に二つのことについて判断する。それは、emotionsとaffectionsの起因(原因)とそれがもたらすであろう結果・効果である。ただし、これは観察者のものさしの範囲内で行われるにすぎない。
感想
難しくなってきた。例えを挙げると、全文掲載することと等しくなるため、わかりにくいがこの要約のみ記す。
第3章 同じ主題の続き
諸感情と諸意向の適宜性と不適宜性の判断には、ふたつの場合がある。一つ目、それらが特別なものに起因していない場合。(例えば、さして関心のない名画への正しさとか)二つ目、それらが特別なものに起因している場合。(例えば、自分が直接うける侵害や理不尽など)当然に人は後者について熱くなる。
同情は、unison(同音)でなくてconcord(協和音)でしかあり得ない。悲歎者は、同感者が現れた場合、悲嘆の度合いを下げることになる。なぜなら、同感者が悲歎者と同じだけの悲嘆を、同感から受け得ることはあり得ないからである。また、前章にあるように、感情の大きさが甚だ違うと、そこにsimpathyは存在し得ないからである。だから、悲歎した時は誰かと居ると、この同感の作用によって、落ち着くわけである。そして、その数は多ければ多いほど良い、なぜなら、それだけ「薄まる」(これは私の表現)からである。この故に社会と交際は、悲嘆の強力な救済手段となり得る。
「ひとりで沈思することは、人間愛、忍耐、特別な名誉において勝るかもしれないが、それでも世間一般のひとが持つような斉一性equalityに乏しいのである。」
↑私のことだ。
感想
なるほど、人と人が接する時は、同感がその是非を大きく支配しているんだな。自分の悲嘆を大きく宣伝することは、それだけ、自分の悲嘆を薄める効果を持つ。なぜなら、それだけ多くの人に対して、同感を期待し、また、同感が期待されるからである。そして、同感を得られない時、孤独や、さらなる悲歎が生まれる。
第4章 愛すべき及び尊敬すべき諸徳について
徳には大きく二種類ある。ひとつめ、同感で、自分の感情を引き上げようとする方の、率直で愛すべき徳。ふたつめ、同感で自分の感情を引き下げようとする方の、自己を否定し統制しようとする徳。
moral良俗は、適宜性であり、誰でも持ち得るものである。これに対して、virtue徳は、卓越性であり、限られた者しか持ち得ないものである。だから、徳はアレテー卓越性でなければならない。
virtueはふたつの判断基準を同時に用いることによって判断される。すなわち、完成・理想と凡庸・一般である。後者を卓越するものを徳であると判断し、徳同志を比べる場合は、前者から下に徳を判断する。