正しく見る「正見」とはどういうことか

 見るということには、実に多くの意味があると思う。

 ただなんとなく見ることは、見る、視る:look,see
 注意して、興味を持って見ることは、観る:observe,watch
 調べてたりして、洞察することは、診る:have a insight  などなど

 とにかく、見ることや聞くことは、知識や智慧の始まりであり、この時点で事実を間違って捉えてしまうと、その後の全てを間違ってしまうことになる。だから、私は、正しく見ること、仏教でいう八正道の「正見」はとても大事だと思っている。

 では、正しく見るとはどういうことか。一言で言ってしまえば、ありのままに見る。ということが言えると思う。

 だけど、人間には誰しも思いこみ「妄想」というものがあって、ありのままに見るべきことにも、自分の見解や妄想を持ち込んでしまう。例えば、砂糖と塩を取り間違えることはその良い例だろう。いつも砂糖が入っている方の容器に塩が入っていたら、ほとんどの人がその砂糖の容器に入っている塩を、砂糖と勘違いして使ってしまうだろう。このように、自分が持っている妄想や思い込みがなどが「正見」を妨げることがある。

 次に、「妄想」が誰かにあって、そのことが「正見」を妨げることがある。例えば、とてもアメリカに住みたいと思っている人がいて、その人はアメリカ通で、アメリカについての本を千冊くらい読み、旅行にも何回も行ってアメリカ文化にも多く接してたとする。初対面であったとき、この人があまりにもアメリカに住みたいばかりに、あたかも自分がアメリカに住んでいたのかように話をしたとする。それで、アメリカに住むと言うことはそういうことなのかと納得してしまったとする。こういった場合は、人の「妄想」が、自分の「正見」を妨げてしまうことになる。

 それで、ここでは若干話が単純化されているけど、実際には、「自分の妄想」と「他者の妄想」が複雑に入り乱れているものが現実である。そして、この両者の入り乱れたものが「正見」を妨げている。しかし、そこには共通のものもある。それは「妄想」だ。

 つまり、自分にも、他者にも、「妄想」があることを認識すること、が「正見」を行う上での大前提であることが分かる。そして次に、この「妄想」と「事実」の境目をしっかりと見極めること、が「正見」に少しでも近づくことであると考えられる。言いかえると「妄想と真実の境目」を見極めることが「正見」なのだ。

 そこで、気をつけなければならないこともある。例えば、多くの人が共通に持つ「妄想」は「真実」との境目が曖昧になり峻別することが難しくなる。あと、「目に見えない真実」も妄想に陥りやすい。例えば、占いとかがそうだ。私は、占いといわれるものの一部が真実であることを正見している。しかし、見えないだけに、とても妄想に陥りやすく危険であるとも分かった。とにかく、見えない真実、例えば霊とか、占いとか、そういった類のモノは、見えない上に、多くの人が共通の妄想を持ち易いから、妄想と真実を峻別するのが恐ろしく難しい。気をつけなければならない。君子危きに近寄らずということなら、一切関わらない方がいいかもしれない。

 そして最後に、「正見」は、「遠見」や「多見」とは全くの別物であるということである。私は、「遠見」が好きなのだけど、いかに遠くの分からないはずのことまで何かが分かったとしても、それが「正見」でなかったら何の意味も無い。そして、むやみに多くを見て、全てを「正見」できなかったとしたら、その「正見」できなかった「多見」は無駄である。

 こうして考えてくると、「正見」は、確実に自分の正見できる範囲しか見ないこと、また、自分が正見できる範囲を見極めることと言えるかもしれない。