妄想について

百善簿をつけるということで、付け始めてみたのだけど、やはりなかなか難しい。

というのも、やはり、実生活において自分の行動にほとんど気を配っていなかったからである。

それはともかくとして、善と悪のものさしを少しだけ決めることをした。

私の智恵では以下のものさししか確定して決めることができなかった。

慈悲の瞑想などによって慈悲の心が出た場合、生き物を事実として助けた場合、荀子の現代語訳をしたとき

怒り、憎しみ、嫉妬、妄想と妄念が起こった場合。その他、明らかに悪いこと。

である。

妄想と妄念が悪なのかどうか、ということについてだけ詳しく述べたいと思う。

妄想や妄念とは、事実と違うことや、ほとんどあり得ないような未来のできことを心に思い描いたり、それを強く心に念じることである。

心に妄想や妄念が起こると、それが自分の現状把握や推測に若干の影響を与える。これは、例えば、きれいな清水の入ったコップに少し日本酒が混ざるようなものである。色が同じであるから、ほんの少しだと分からない。こうして、このコップの水を飲み干すと、次にコップ一杯になった、もう少しだけ日本酒の混ざった清水でも何も気がつかずに飲みほしてしまうこととなる。すると、アルコールの作用でさらに舌が麻痺して臭いにも慣れて、さらにもう少しだけ日本酒の混ざった清水も気がつかずに飲み干すこととなる。こうして、妄想と言う名の日本酒がどんどん多くなって、現実と言う清水を濁していくのである。

流石に半分くらいまで日本酒が混ざったところで、これはおかしい、と気がつくのが普通であるのだけど、時として、この妄想と言う名の日本酒によって中毒症状に陥ってしまう場合もある。こうなってしまうと手を付けることができない。なぜならば、そうなったとき、現実のほとんど全てが妄想と入れ替わっていることになるからである。

ところで、妄想や妄念というものは、事実と反対のものである。すると、この妄想と妄念の中毒となった人は、現実世界において、害を利として喜び、得を失として捨て、有を無と見なすようになる。害を利として喜べば、人を傷つけ己を損じて、得を失として捨てるなら、得ること少なく失うことは多く、有を無と見なすならば、生を死に転ずるのである。

こういったわけであるから、妄想と妄念は悪の発端であり、間違いない悪なのであり、謹慎してよく気をつけなければならないのである。

荀子論法の真似がうまいことできた)