62.学問のすすめ 現代語訳 十五編 第三段落

第三段落

 そうであるけれども、物事を簡単に信じてはならないことが是であるならば、また、物事を簡単に疑ってもならない。この真疑を察するためには、取捨の明というものが必要である。そもそも、学問の要は、この明智を明らかにすることにあるのである。

 わが日本でも開国以来、急に人心の趣が変わって、政府が変革され、貴族が倒され、学校が起こされ、新聞局が開かれ、鉄道、電信、兵制、工業など、百般のことが一気に古い形を改めたのことは、どれも全部皆数千百年以来の習慣に疑いが入って、これを変革することを試みて功を奏したと言うべきである。

 そうではあるのだけど、我らが人民の精神において、この数千年の習慣に疑いを入れたその原因を考えてみると、初めて国を開いて西洋諸国と交わり、その諸外国の文明の有様を見てその美を信じ、これを真似しようとして我らの古い習慣に疑いをいれたものでしかないのであって、これは自発の疑いと言うべきではない。

 ただ旧いものを信じる信で新を信じ、昔は東に在っただけの人心の信が、今日は転じて西に在るだけなのであって、その信疑の取捨がどうであるのかということに関して、本当の明があるというわけではない。

 私はまだ浅学寡問であるからには、この取捨の疑問について、細かいことの当否を論じてその箇条を多く挙げることができないのは、自分としても懺悔すべきことではあるけれども、世の中が変革した経緯の大まかな流れから察するに、天下の人心はこの勢いに乗せられて、信じている人は信じ過ぎ、疑っている人は疑い過ぎ、信疑ともにその止まるところの適度を失っているものばかりであることは明らかなのである。次からそのことの次第を記していく。


まとめ
http://d.hatena.ne.jp/keigossa/20121007/1349584536


感想及び考察

■ここに書かれていることは、大学と中庸に全く同じと言っていい内容があるように思う。大学の「致知格物」とはまさにこのことであろう。中庸には、賢き者は明に過ぎ、愚かな者は明に及ばず、とある。つまり、賢い人間は、とにかくなんでも無理に疑って高遠を求めるから、意味のないことまで明らかにしようとするということで、愚かな人間は、とにかくなんでも簡単に信じて楽な方へと流れるから、真理で無いことを結局信じて真理を明らかに知らない。ということである。