23.荀子 現代語訳 不苟第三 十二〜十四章

十二章

 公平で私偏しないならば正しく見ることが生まれ、何かに偏るのならばまわりが見えなくなる。正直で素直なことは物事への迅速的確な対応につながり、欺きと偽りは全ての窮迫と閉塞につながる。真心とお互いを信じる気持ちは絶妙な働きを生じて、見栄やほらふきは疑惑を生じる。(●公は明を生じ偏は闇を生ず、端愨は通を生じ詐偽は塞を生ず、誠信は神を生じ誇誕は惑を生ず、此の六つの生ずる者は君子はこれを慎む)

 これらの六つが生じるところは君子の慎むところであり、禹(偉大な王)と桀(暴虐を極めた王)の分かれるところである。

十三章

 好悪取捨のはかりごとについて。

 もしも、自分にとって好ましいものを見たのなら、必ずその前後にある好ましくない部分について熟慮し、自分にとって利益となるものを見たなら、必ずその前後にある危害について熟慮し、そうして、これらを合わせて比較考慮した上でこれらを正しい天秤にかけてみて、これらのことがしっかりできて後、好悪取捨の選択判断をする。このようにしていれば不測の失敗が起こることはない。(●欲悪取舎の権。其の欲すべきものを見れば則ち必ず前後に其の悪むべき者を慮り、其の利すべきものを見れば則ち必ず前後に其の害すべきものを慮り、而して兼ねてこれを権りつらつらこれを計り、然る後に其の欲悪取舎を定む。是くの如くんば則ち常に失陥せず)

 そもそも、人の弱点というものは、何かに偏ってこれを損なうことである。(●凡そ人の患いは偏してこれを傷なうことなり)

 好ましいものを見るとそれに伴っている好ましくない部分に思いを致さず、利益があるところを見るとそれに伴っている危害の部分に思いを致さない。このようであるから、動けば必ず失敗し、何かすれば必ず辱められることとなる。これが偏って損なうことの患いである。

十四章

 人が嫌うようなことは、私もまたこれを厭い嫌う。(●人の悪むところの者は吾れも亦これを悪む)

 貴人や富人におごり高ぶって、貧乏な人に努めて従うようなことは、これは人の情と言えるものではない。

 これこそ、破廉恥な人間が、世の中の蔽われた部分を利用して名声を盗もうとすることである。陰険で邪悪なことこれより大きいものはない。だから、名声を盗むことは財貨を盗むことにも及ばないと言う。田仲と史鰌は盗人にも及ばないのだ。(●名を盗むことは貨を盗むに如かずと曰う)


まとめ
http://d.hatena.ne.jp/keigossa/20130104/1357283885


解説及び感想

■十二章では、前章の人の種類を継いで、それらがどうのような心から生まれるのか明らかにしている。十三章は好悪取捨について。好悪は先の六つの心に関わりが深い感情である。十四章は、好悪の感情をどのように取り扱うべきかについて述べ、当時のエセ名士に筆誅を加えている。

荀子は、喜怒哀楽という四情の他に、好悪の二情を加えて、喜怒哀楽好悪として、この六情を人の基本的な感情としている。

■十二章は私が漢字の意味を随分下しているので漢字で表にしておく。
公→明、偏→闇
端愨→通、詐偽→塞
誠信→神、夸誕→惑

■十三章は、特に誰もが気をつけないとならないことであると思う。これはまた、願望と推測の違いとも言える。つまり、願望は「自分がこうなって欲しいと思っている未来の事」であり、推測は「客観的に判断した時こうなるであろう未来の事」である。これらは、「未来の事」という共通点をもって、混同されやすいのであるけれど、全く違うものである。好悪の好を見た時に生まれるのが願望で、好悪の悪を見た時に生まれるのが推測である。君子たる者、当然推測を尊重しなければならない。▼「覚悟して生きろ、自分がもとで起こる全ての事象を予測せよ 覚悟して生きろ、自分がもとで起こる全ての事象に責任を持て 覚悟して生きろ、そうすれば後悔はない」私が以前思いついた言葉。食べ過ぎて怠けていれば太る。そして後悔する。当たり前のこと、だが、太ることを覚悟することから自分の生活に対する責任は生まれ、太るという可能性を考えることで自分の生活に責任を持つべきだということが自覚できる。