「小を為して大を成す」

 例えば、ある人の皮膚に何かできものができていたとする。本人は特に痛くないと言うし、病院に行く必要はないと言った。そして、100人いるうちの99人までも、病院に行く必要はないと言った。だが、100人のうちの残りの1人は、「それは内臓疾患の可能性があるから病院に行った方がいいと思う。」と言ったとする。この残りの1人は、医者ではないが何か医学の心得があったとする。

 そして、数ヵ月後、そのある人は、下痢に悩まされるようになって、病院に行ってみた。そしたらなんと癌であった。この癌切除の手術は、すごい難しい手術で、日本のどの名医もお手上げだったとする。だが、1人スーパードクターKがこの手術に挑戦し見事その手術を成功させたとする。

 こういった場合、一万人の人が居たら、9999人までもの人が、このスーパードクターKを称賛すると思う。「あの人の医療技術は凄い」と。だが、この評価は果たして正しいのだろうか。というのも、一万人のうちで、スーパードクターKを称賛しなかった最後の1人はこう言ったのだ。「大病になる前に何とかするのが本当の名医である。」と。そうなのだ、本当に称賛されるべきは、このある人の皮膚を見ただけで、内臓疾患を推測していた人なのである。この人の言葉を信じていれば、こんな大掛かりな手術はしなく済んだかもしれないのだ。だが、その人が多くの人から称賛されることはないだろう。なぜなら、事が小さいからである。

 そもそも、火は小さいうちに消すのが常道である。災害への対策は、災害が来る前にしておくのが賢明である。問題は、顕在化する前になんとかするのが賢人の道であり、そして、塵を積んで山を成すのが聖人の道であるのだ。

 だが、しかし、世の中のほとんどの人は、このことを見抜くことができない。賢人が問題を顕在化する前に消しておいても、「うまく行っている」と思うだけだ。誰かがうまくいくように何かをしているなどとは想像もしない。うまくいくのが当たり前だと思うだけだ。

 聖人が大きな事業を成した時、ほとんどの人は、聖人のその事業の結果を見るだけで、なぜその事業を成し得たのか、逆立ちしても分からない。ただ、その結果を知るだけである。

 このように、本来称賛されるべきことは、「小を為す」ことであるのだ。だが、この為された小は誰にも気付かれることが無い。だから、それが称賛されることも無い。

 孫子にはこうある。「勝ちを見るとき、普通の人が見るような結果でしか勝ちを見ることができないなら、善の善と言うべき将軍ではない。髪の毛を持ちあげても力持ちではないし、太陽や月が見えたからと言って目が良いわけではない、雷の音を聞いても耳が良いわけでない。」

 易経にはこうある。「霜を踏みて堅氷至る」「君子兆しを見てやむに如かず」「君子以て終わりを永くしやぶるるを知る」と。