松下幸之助・盛田昭夫の対談本「憂論」を読んで

 この「憂論」は昭和50年に、世界の松下、松下幸之助と、世界のソニー盛田昭夫が、日本を憂えて対談したものをまとめた本だ。現時点で少し読んだのだけど、既に面白い雰囲気がする。というのも、いつの時代にも、憂国の士が居たし、現に居るのだ、そして、憂国の士は常に利害を超越した立派な人間であったのだという、そうゆう雰囲気が、「はしがき」と、「本田宗一郎による数行の推薦のことば」、「対談を記した最初の数ページ」を読んだ時点で既に読みとれるのだ。


1.戦後30年の病根
 読んだ感想からすると、今の日本はこの対談が行われた昭和50年から、つまり35年も前から何も変わっていない。良識のある人が今も危惧していること、つまり、日本の教育・外交・政治家の在り方・政治の仕組み・税金の使い方・民主主義の間違った捉え方・国民の政治への不関心など、少しは良くなったと思われる仕組みもあるけど、根本的にはほとんど変わっていない。あまりの変わっていなさに、あきれて笑えてくるほどだ。この対談で取り上げられている問題は、日本にとって今なお取り組むべき問題であるのだ。最初は面白いとか、興味深いとか思いながら読んでいたけど、途中から、これは良識のあるネット配信者のみなさんが前から訴えていることにほかならぬ、なんと進歩のない国なのだ。と言ったように、半ば暗澹たる気持ちになってしまった。しかし、その「日本の変わっていなさ」「日本の進歩していない有様」を知るためにも是非一読する価値はあると思う。

 国家経営を会社経営と比較し、同じものとする考え方は、新鮮で着目すべきであるとは思った。

 両氏とも「今になって日本は負けたのだと感じるようになった。」と言っている。このころが、本当に日本の悪くなる始まりだったのかもしれない。

 松下幸之助が何度も「日本は負けたのに発展した、不思議な国だ」「あり得ないような(効率の悪い政治の)仕組みで成功している不思議な国だ」と戦後日本の不思議さを強調している。そして、「日本の国運は危機(黒船来航・元寇・世界大戦など)を乗り越えて成長するものではないか」と言っている。私が思うに、これらの強運とも言うべき国運の所以は、日本に奴隷制がなかったことが一番であると思う。これこれこうだ、と理由を提示することはできないが、日本の美点たる最も特質的な歴史は、この奴隷という概念がなかったことであると思っているからだ。もちろん、他民族と特に戦争と言う接点が無かったという特異性も遠因としていると思う。

 ここに挙げらているような制度やこまごまとした仕組みの改善は重要であると思う。しかし、私が求めているのは、これらの悪いものを根本的に解決していく、問題自体の解決からすると二次的とも言うべき仕組みなのである。仏教的に言うと、苦集滅道の道に当たるものだ。こうゆう暗澹たる制度の悪さの話を聞くと、それを少しずつでも潰したいという気持ちになるけど、それだけでは足りないのである。そうゆう悪い仕組みができていかないような仕組みを作らなければならないのだ。


2.教育も病んでいる
 これも、今現在とほとんど変わっていない。

 個人的な考え方、やり方の方策として面白いなぁと思ったのは、ソニー盛田氏が、妊婦教育を取り入れるといいと言っている点だ。妊婦になると、そのとき人は少なからずまじめになる。だからこのまじめになるところを狙って正しい教育の仕方、子供の育て方を教えるべきだと言っている。

 松下氏の意見で、大学を半分にすると良いと言っているのも面白い。これは、大学が勉強する場ではなくなっいて、むしろ、ほとんどの若者にとってあたかも大学に入学することが人生の最終目標みたいになっている点について、それを改善するための方策についてしゃべっている部分だ。ここでは二人の意見が割れていて、盛田氏は、まず、企業が大卒とか〜〜大卒とかの学歴による人事の考え方を止めるべきだと言っている。企業が全てそうなれば、真に勉強したい人しか大学に行かなくなるし、大学に行く目的もはっきりしてくるはずだと言っている。これに対して、松下氏は、それをどの企業もやることは難しいことだから、政治の力で大学を半分にすればいいと言っているのだ。ほとんど概ねで意見が一緒だった二人がここで初めて意見が割れている。恐らく、年長者であろう松下氏に盛田氏が譲歩する形、また、すごい勢いで自分の意見を押し付けてくる松下氏に盛田氏が諦める感じで次の話題に移っている。

 この部分で、読みとれたことは、盛田氏はすごい努力家、読書家、勉強家であったろうということだ。自分の考えを検証するために時間と労力を惜しまない、そして、その検証結果を次の成功と自分の自信につなげていっていたのであろうと推測される。

 松下氏についても読みとれたことがある。それは、ある意味ではすごい楽天家であったろうということだ。どんどん日本の未来に悲観していく盛田氏に対して、際立ってそう思えるのかもしれない。ただし、ここは表現しにくいのだけど、単に楽観視しているだけでなくて、確信としてのなにものかが松下氏にあって、その上で全てを楽観しているところがある。その何者かというのは、日本は危機を必ず乗り越えるのだ、という根拠のない自信みたいなものだ。これは、私が思うに、対外的に戦争功罪が比較的少なく、奴隷制が無かったという因縁の結果、少し言葉を変えると、積不善による他の諸外国と比べた場合の相対的幸運というものと思う。まあ、これだけでなくて、必要に迫られれば人は目覚めるという考え方も述べている。つまり、悪いことや悪い部分が目に見えて顕著になれば、それをなんとかしようと思う人が必ず出てくるというのだ。例えるなら、誰も掃除をしない部屋があったとしよう。そして、その部屋がなんともならないくらい汚くなってきたとしよう。そのとき、頼まれなくてもその部屋を掃除する人が必ず出てくる。そういう考え方だ。

 因縁のうんぬんというのは理解していなかったにせよ、松下氏は何らかの経験的直観から確信していたのだと思う。この因縁によって日本が守られている証拠として、今日本は35年前とほとんど変わっていないのに、まだ何とか民族として自立して、食いつないでいる。目に見えた破たんはしていない。いや、むしろ破たんしない「生殺し」の方が苦しみが多いのかもしれないが。


3.自由経済を見直す
 財界人らしい、まず最初は税金の多さに対する文句から始まっている。企業収益の50%くらいが税金として納められているらしい。まあ、確かに文句を言いたくなる気持ちはわかる。企業は国との合弁会社であると言っているのはうなずける。この意識が日本に希薄だったため、トヨタアメリカでバッシングされ、さらに技術までも堂々と盗まれたのである。

 今の資本主義を社会主義に近いもとか、資本主義でなくて大衆資本主義(株は大衆に分散しているから)と言っているのは、さすが経済人、的確だと思った。

 あと、このころオイルショックがあったということで、「企業が悪」みたいな風潮があったらしい。今となっては、外国でも有名な日本企業は、日本国民にとってのむしろ誇りである。こういう世論の動きもなかなか見逃せない。

 あと、松下氏が盛んに言うのが景気を良くするための減税である。ケネディー大統領が税金最高額3割頭打ち減税政策を打ち出したことを絶賛している。これを肯定する話として、アメリカ人が「もし減税で国庫が200億減っても、国民は儲けようとしていろいろ創意工夫して、400億儲けるところを800億儲けたとする。そうすると、アメリカ全体では600億儲かったことになって、余分に200億儲かることになる。良い話じゃないか」と言ったと言っている。まあ、日本ではこんな考え方する人いないだろうな。私と国はあくまで別個の懐だと、政治家も含めて皆思っているのだから。

 結論らしい結論として「自由民主主義は制度として素晴らしい、だけど真の民主主義には高等な良識が必要である」と言っているのは、素晴らしいと思った。
まさにその通りだと思う。

 あと福祉に関する考え方も立派だ。私も、国の福祉政策や社会保障制度には若干の疑問を感じている。金でなくて、教育を与えるべきであると思うからだ。それができない人には金を与える必要はあろうが。私の考えとしては「働かざる者食うべからず」であるのだ。私も随分とこの言葉を言われて、庭の草むしりやら何やらをしたものだ。そのときは「くそっ、それ言われたらやらんわけにはいかんな」とか子供心にも思っていたけど、今思えば、最高の教育であったという気がする。

 ここでの議論は、財界人としての洗練された良さもある半面、金もうけ主義への傾倒もあって、全てをよしとすることはできないと思った。いかに立派な人であっても金を儲けることを第一として生きてきた人たちだ。どれだけ気を配っても、時としてその枠の中だけに留まっているときがある。ここが実業家の限界かもしれないと思った。

 ここで松下氏の本性と言うか、性根というかが良く見える。生まれついての商売人、というようなものだ。立派なことも言っているし、それを実行に移す徳ある人であったことは間違いないように思うが、なんというか、この商売根性が抜けない。金の話になると、どうもこっちの方が顔を出してくるようだ。それは、品が無いといえば品の無いことなのだけど、本から読みとれる範囲では、まあ、そうゆう人なんやな、みたいなパーソナリティという感じだ。ここがどうしても気に食わないという人もいるだろうけど、逆にここがこの人の魅力とも言えるし、つまり、この抜けない商売根性が、松下氏の最大の美点であると同時に、最大の欠点のように思う。あと、松下氏は、直感型であったことが分かる。直感が当たる時は、ものすごいが、外れるときもある。これに対して、盛田氏は、着実な検証型で、間違いないと思った時の自信はすごいが、逆に、わからないことや検証していないことに関してはほとんど自信がなく、なんかかわいらしくすら思えるほど弱気なのだ。根拠のないことは言わないししない、というような感じか。


4.新しい時代の新しい認識
 非常に面白かった。相変わらず経済に話が少し偏向していたが、まあ、それを含めても余りある、先見性と示唆に満ちた良い対談をまとめた本であると思う。これだけのハイレベルな話を、対談という形で行えたということは、それ(日本を憂うる気持ち)に関する心配りがとんでもなかった、ということは間違いないと思う。例えるなら、アイスクリームをあまり食べない人は、アイスクリームの話題で盛り上がることはできない。憂国に関する対談を示唆あるものにするためには、国を愛する気持ちが深くなくてはならなし、国を良く知っていないとならない。この両方の条件を二人とも持ち合わせていたことが読みとれる。

 内容としては、公害や日照権の話から始まっている。そして、面白いことに、盛田氏が日本の有効面積の狭さについて提言して、そして、明らかにこのとき、松下氏が「新国土創成論」について思いついているのだ。この対談のときにその構想を思いつき、その半年後に練りに練った「新国土創成論」を出版した思われるのだ。なんとも、私の読みとった直感型の松下氏らしい、なんというか、人間として好感の持てる瞬間だった。

 あと、「そうか」と思った部分があって、日本の法律と言うのは、上から下、つまりお上が下々を規制するためのものと言うのだ。私もそうだと思うし、法律とはそういうものだと思っていた。しかし、アメリカでは「法律はお互いが損をしないためのルールだ」と言うのだ。つまり、アメリカとはもともと寄せ集めである。だから、自分の利益を確保するため、自分のためにみんなで決めたルールが法律だと言うのだ。この着眼点というかは、初めて気付いた。法律とは本来自分の利益を確保するためのものであるのだ、自分が縛られるためのものではない。発想の転換だと思う。先入観というか、常識の枠を外すことの重要性を改めて感じた。

 あと日本という機関が、企業を外国で守らないことに文句を言っている。トヨタが…(前出なので略)

 民主主義でも社会主義でもない、新しい主義、つまり、これは私が研究したいと思っているものなのだけど、についても松下氏が触れている。これは、アインシュタインか誰かが、今からだと60年も前に言っていたらしい。そして、それは人間の本質が研究されることによって生まれるものだという、まさに私の方針もそれだ。少し運命を感じてしまった。

 ソニーの盛田氏は、人間としても尊敬に値する素晴らしい人であったことが読み取れた。ほんとうに広範囲に渡っていろいろな勉強をしているのだ。最後は、盛田氏が話をまとめていく形になっているところも、盛田氏の人間性の深さや魅力というかを良く現わしていると思う。

 そんな盛田氏の名言、若い管理職の社員に会社の目的は何かと問われたときの言葉らしいが、

「いや、利益をあげるだけが会社の目的ではない。それから、世界中に会社を広げて大きくすることが目的でもない。私は少なくとも、わが社に関わり合った一人ひとりの人が、『わが社にかかわりあって幸せだった。満足だった。』と思ってくれるようにしたいんだ。」
今、退職した人間から感謝されるような会社があるだろうか。経営者が、退職する人間や関わっている下請け企業に良くしてあげているということがあるだろうか。全て逆ではないか、退職する人間は、「もうここには二度と来ない」と足の裏のほこりを払い、つばを吐き捨てて退職し、下請け企業は、元締め企業を「仕事をくれるありがたい旦那様」と思うばかりか、「隙があれば値切って利益を吸い上げる吸血鬼」と思っているのではないだろうか。そんな関係がいいものを生むはずがない。盛田氏はそのことを良く知っている。経営者たるものこのような心構えが一番大事だと思う。

 私は、古典以外の本なんて、はっきり言ってあんまり価値がないと思っていた。けど、普通の本も、読み方次第では価値があると分かった。古典は通読・熟読・暗記という、まさに気の遠くなるような反復作業、剣道で言うと素振りのような基礎練習、普遍性の追求であると思う。これに対して、普通の本は、特異性だけ読みとればいい。自分にとって必要な部分だけ記憶し、自分にない個別的な部分だけ気にとめればいい。しかし、そうやってかいつまむためには、自分がぶれないだけの基礎が必要であって、やっぱり基本は古典を精読することと思う。

 直感のようなものの重要性と、着実・堅実・統括・検証というようなものの重要性、これらが対比されることによって際立っていたように思う。しかし、見逃してはならぬのは、これらは共存が可能ということである。どちらかが突出したからと言って、どちらかが無くなるわけでもない。バランスを取る必要なく共存させることができる。ただし、どちらかが優れていると、それに頼ってしまうという弊害はあろう。直感が良く当たれば検証する必要はなくなり、検証をしなくなる。検証結果に基づいてものごとを進めれば、直感を使う必要がなくなる。どちらにも頼まないというのが大事なのかもしれない。