16.荀子 現代語訳 不苟第三 一・二章

不苟第三(苟(いやし)くもせず:ただ〜〜というわけではない)

一章

 君子は行いにただ難しいことを貴ばず、言論にただ奥深いことを貴ばず、名にただ伝わることだけを貴ばず、ただその当たることのみを貴いものとする。(●君子は、行いに苟も難きことを貴ばず、説に苟も察なることを貴ばず、名に苟も伝わることを貴ばず、唯其の当るを貴しと為すのみ)

 だから、石を懐に抱えて河を渡るようなことは、行いとして難しいことであり、申徒狄はこれをすることができた。しかし、君子がこれを貴いこととしないのは、これが礼義の中から外れていからである。

 山と谷とは平らかで天と地も同じ位置にあり、斉と秦が同じところにあって(斉と秦は当時のシナの東端と西端に位置する)、つりばりに魚の髭があって卵に毛が生えているなどは、言論として難しいことであって恵施と訒析はこれをすることができた。しかし、君子がこれを貴いこととしないのは、これが礼義の中から外れているからである。

 盗跖はその名前が貪欲とともに日月のようであり、禹や舜とともに伝わって絶えることがない、しかし、君子がこれを貴ばないのは、これが礼義の中から外れているからである。

 だから言うのだ。君子は行いにただ難しいことを貴ばず、言論にただ奥深いことを貴ばず、名にただ伝わることだけを貴ばず、ただその当たることのみを貴いものとすると。(●君子は、行に苟も難きことを貴ばず、説に苟も察なることを貴ばず、名に苟も伝わることを貴ばず、唯其の当たるを貴しと為すのみ)

 詩経 小雅・魚麗篇に「物はあっても、それには季節と旬がある」とあるのはこのことを言ったのである。

二章

 君子は知り合いとなることは簡単であるけれど、簡単になれなれしくすることはできず、恐懼させることは簡単であるけど、脅すことは難しい。(●君子は知り易きも狎れ難く、懼れしめ易きも脅し難し)

 艱難を畏れても義に死ぬことを避けず、利益を欲しても道理から外れたことはしない。(●患(害)を畏るるも而も義に死することを避けず、利を欲するも而も非なることを為さず)

 交際は親しくしても偏りのある親しみ方はせず、言葉は多弁であっても乱れることがない、大きくてゆらゆらしてつかみどころがなく、世の中から一線を画しているところがある。(●交は親しくするも比らず、言は弁ずるも乱れず、蕩蕩乎として其れ以て世に殊なるところ有るなり)


まとめ
http://d.hatena.ne.jp/keigossa/20130104/1357283885


解説及び感想

■一章で苟(いやし)くもせずことの概要を示し、二章で、その結果として君子に起きる現象を明らかにしている。

■世の中には、できないこと、と、やらないこと、の区別のつかない人が多い。例えば、能力がある人が金持ちでないのは、お金は手段ということを弁えているからである。例えば、魅力のある男性が多くの女性と親しくしないのは、女性は自分と同じ人間であることを弁えているからである。その人はやりたいけどできないのではない、人格者はできるけどやらないのだ。そして、その理由は礼義・道理に合致するかどうかなのである。

論語・季氏第十六(君子の三畏)より「君子に三畏あり。君子は天命を畏れ、大人を畏れ、聖人の言を畏る。小人は天命を知らずして畏れず、大人に狎れ、聖人の言を侮(あなど)る」

論語・泰伯第八より「曾子疾(やまい)あり。門弟子を召して曰く、予(わ)が足を啓(ひら)け、予が手を啓け。詩に曰く戦戦兢兢として、深淵に臨むが如く、薄氷を踏むが如しと。今よりして後、吾(われ)免(まぬか)るることを知るかな。小子。」http://d.hatena.ne.jp/keigossa/20120118/1326891321

アリストテレスの弁論術を読んでいて1

最近、アリストテレスの弁論術(岩波文庫)を読んでいるけれど、恐ろしく明晰だなぁと思う。

これも、いろいろな人の役に立ちそうだから、自分の学習も兼ねて要約というかを作ろうかなと考えている。

アリストテレスは、カテゴライズ化に優れていた人物だと思う。カテゴライズ化・概念化とでも言おうか、今で言うなら唯物弁証法(materialize)(私は仔解論と訳すべきだと主張している)に優れている。

アリストテレスの頭の中か、その近辺のメモ用紙には、トーナメント表みたいに、ものごとを系列化したものがあったに違いない。その系列化もさることながら、やはり物事を弁ずる力、弁別して部分を全体化する、弁別して部分をひとつのかたまりにする判断能力も相当高いと思う。

多分、アリストテレスの弁論術を完全にマスターできれば、レトリックの基本は完璧になると思う。あとは、経験とか、知識とか、その辺のものだけで少しずつ補強されるということになるだろう。

とここまで言っているのだけど、このアリストテレスの弁論術を、私はまだ10ページくらいしか読んでいない。しかし、その最初の10ページだけで、今まで私が述べたことを容易に確信できるのだ。

そういえば、最高政体を古代ギリシア語では「アリストール」と言ったらしい、ほんとにアリストテレスはその名にふさわしい人物と思う。

2013.1.10

アリストテレスの弁論術を読んでいて2

ついにこの時が来てしまった。

仏典を漢字で理解できる弊害と、

易を独学できる環境の悪さと、

孫子を文学的にも高い価値があると知れる悪影響が!

つまり、アリストテレスオルガノン(恐らく西洋では相当に有名な古典)がない!ということである。

多分、西洋圏に住んでいれば比較的簡単に手に入る書物なのであろうが、日本ではどう探しても手に入りそうなものがないのである。

論語とか仏典とかが多数あることとそれに親しめることの恩恵を受けていたから、いつかその弊害が訪れることは明白であったのだけど、遂にこの時が来たか。という感じだ。

弁論術とアリストテレスを厳密に理解しようとすると、どうしてもこの書物を読まなければならない感じがする。部分的なものは手に入るみたいだし、そのへんでなんとかしよう。

2013.1.14

アリストテレス弁論術を読んでいて3

日本人はほんとにレトリケーが下手だなと思った。

アリストテレスによると、弁論術と弁証術はほぼ同じもので、そうすると、弁証術における帰納は弁論の例証に、弁証術における推論(演繹)は弁論の説得推論に当たる。ということなのだけど、帰納と推論(演繹)ではそれらがどんな弁証術なのか全然イメージが湧いてこない。これはオルガノンのうちのトピカに詳しく書かれているそうだから、そのうちしっかり理解したいと思っているのだが、この私の理解を遅める原因が、この日本人の帰納と推論(演繹)という表現にほかならぬ気がする。

ほんとはトピカを読んでからこういったことをした方がよいのだろうけど、私がこの訳を分かりやすく変えてやろうと思う。前も唯物弁証法または唯物論(materialistic)を仔解論としたのだけど、やはり断然こちらの方がその実体に近いことは間違いないと思う。

帰納:inductionは、似たような事例を提示することで、別の命題が真であることを証明する方法なので、類証法(たぐいによってあかしする)とした方がよかろう。

演繹(推論):deduction(inference)は、前提から筋道を経てその命題が真であることを証明する方法なので、源結法(みなもとと結ぶところ:最後・結果を暗示することでその間の道のりを創造・想像することができる)とした方がよかろう。

こうして考えてみるに、荀子は、この類証を使いながら、その類証を連ね合わせて源結していることになる。しかもそれをあの短い文章のうちにやっているわけである。レベルが高くて玄妙なわけだ。