アリストテレス弁論術を読んでいて3

日本人はほんとにレトリケーが下手だなと思った。

アリストテレスによると、弁論術と弁証術はほぼ同じもので、そうすると、弁証術における帰納は弁論の例証に、弁証術における推論(演繹)は弁論の説得推論に当たる。ということなのだけど、帰納と推論(演繹)ではそれらがどんな弁証術なのか全然イメージが湧いてこない。これはオルガノンのうちのトピカに詳しく書かれているそうだから、そのうちしっかり理解したいと思っているのだが、この私の理解を遅める原因が、この日本人の帰納と推論(演繹)という表現にほかならぬ気がする。

ほんとはトピカを読んでからこういったことをした方がよいのだろうけど、私がこの訳を分かりやすく変えてやろうと思う。前も唯物弁証法または唯物論(materialistic)を仔解論としたのだけど、やはり断然こちらの方がその実体に近いことは間違いないと思う。

帰納:inductionは、似たような事例を提示することで、別の命題が真であることを証明する方法なので、類証法(たぐいによってあかしする)とした方がよかろう。

演繹(推論):deduction(inference)は、前提から筋道を経てその命題が真であることを証明する方法なので、源結法(みなもとと結ぶところ:最後・結果を暗示することでその間の道のりを創造・想像することができる)とした方がよかろう。

こうして考えてみるに、荀子は、この類証を使いながら、その類証を連ね合わせて源結していることになる。しかもそれをあの短い文章のうちにやっているわけである。レベルが高くて玄妙なわけだ。