161.荀子 現代語訳 正名第二十二 二章-後

 そうであるならば、何によって名を異同するのか。

 答えて、名は天官(天から与えられた自然に備わっている感覚器官)によって異同する。そもそも、種類も同じで感情も同じものは、天官が物を意に介してはかることも同じとなり、だから、疑わしく似ているものについて意に介したことを比べても、その結果は通じるものがある。これが、決めた名前を皆で共有のものとすることが期待できる理由である。(人間が同じ感覚器官を用いて、同じ心でものを判断すれば、同じ様な判断が得られることが期待できる。これが名前を決めることができる理由である)

 姿形、色や模様は目によってその違いを分かち、声音清濁調節奇声は耳によってその違いを分かち、甘さ苦さ濃い薄い辛い酸っぱい奇味は口によってその違いを分かち、香臭生臭さ油臭さ悪臭や奇臭は鼻によってその違いを分かち、痛さ安らかさ寒暑滑らかさ粗さ軽重は体によってその違いを分かち、話事喜怒哀楽愛悪欲は心に寄ってその違いを分かつ。

 心には徴知がある。(徴知:それをそれとして知ること:例えば、旧約聖書でヨナが魚の中に居たことは神の徴:ヨナが神と関係している証:それをそれとして知るためのもの、であった)徴知とは耳に寄って声を知ればそれでよく、目によってそれを知ればそれでよい。そうであるならば、徴知というものは、必ず天官によって情報として入ったものが、種類の同じようなもと、心のなかで比較されてからそれでよしとなるのである。五官はそれが何であるかを知ることはできるけど、それが何かということを知ることができない。心はそれがそれであると知ることができるけど、それが何であるかということを説明することができなければ、人はこの人をことを不知の人と言う。これが、同じものは同じとして、異なるものは異なるとする理由である。

 このように、既に同じであることと異なることがはっきりしてから、命名することになる。同じものは同じ名前を付け、違うものは違う名を付ける。

 単一の名詞だけで、それを心で了解するのに十分であるのなら単名を付けて、単名だけでは心で了解するのに不十分であるのなら兼名(複合名詞)を付けて、単名によっても兼名によってもどちらでも避ける事ができないようなら共名を付ける。共名であっても実害がないのは、実際には異なっているものには名が違っているべきことを知っているからである。だから、実際が違っているものには、必ず違った名があるようになる。これを乱すことができないのは、実際が同じであるのなら、必ず名も同じであるのと何も変わりない。

 この故に、万物がいかに多いと言っても、時にはこれをあまねく一つの言葉として総称しないとならないときもあるから、これを物と言う。物とは大共名である。一つの名によって他の名を共にし、名を共にすれば徴知も共になり、共にできることがなくなって、そうしてからこの共にするということが無くなる。また、時にはこれを遍く全て総称する。それだけでは全てのことを徴知することはできないから、物のうちにも鳥獣という名がある。鳥獣というものは、大別名と言うべきものである。一つの名によって他の名を分けていき、別名となれば徴知も分かたれ、分かつことができなくなって、そうしてこの分かつということが無くなる。

 名は、そもそも固定のこうしなければならないという意味を持っていない。これはこういった名前にしようとして命名して、この約束が定まって世間一般でもそのようになればこれを宜と言って、約束とは異なるようであるならばこれを不宜と言う。名は、そもそも固定のこれこれこういったものだという実際の何かがない。これはこういった名前にしようとして命名して、この約束が定まって世間一般でもそのようになればこれを実名と言う。しかし、名には固定の善というものはある。筋道が通っていて知りやすく道理にもとることがないのなら、これを善名と言う。

 大体のものには、状態は同じであるのに場所や時間が違うという場合があり、状態は同じであるけど場所や時間は同じという場合がある。こういった場合にはそれぞれを分かつべきである。状態が同じであるのに場所が違っている場合には、合わすべきではあるけれど二つの実があるのである。状態は変わっているけど、その実は分かたれておらず、しかも異なっている場合、これは化と言う。これがことの実について考えて数を定める理由である。これが名を制定する枢要である。

 後王の成した名については詳察しなければならない。


まとめ
http://d.hatena.ne.jp/keigossa/20130104/1357283885

解説及び感想

■ここも分かりにくいかもしれない。しかし、よくよく考えて、その意味がわかると、いかに当たり前のことを述べているか、ということが分かるはずである。当たり前のことを精緻に解析することほど難しいことはない。

アリストテレスオルガノン「カテゴライズ(範疇化)」とほぼ同等の内容と思われる。「ここに書かれていることはカテゴライズのことだ」と言うと、多くの人が簡単に納得できるかもしれない。アリストテレスのカテゴライズは、英語のを途中まで読んだだけなのであるけど、違う点は、荀子が「治のために名を付ける」という本に立って論を立てているのに対して、アリストテレスは純粋に「カテゴライズとは何か」を問題として論を立てていることであろう。