162.荀子 現代語訳 正名第二十二 三章

三章

 侮られても辱めを受けたというわけでないとか、聖人は己を愛していないとか、盗人を殺すことは人を殺すことでないといったような理論は、これは名を用いることに迷って名を乱すものである。こういいったもののためには、名のある理由に照らし合わせて、どちらが本当に行われるべき名の用い方であるかを観てみる。そうすれば、名を間違って使い名を乱すことを禁ずることができる。

 山も淵も平らであるとか、感情は欲が少ないとか、肉は旨味を増さず鐘は楽しみを増さないといった理論は、事実を用いることに迷って名を乱すものである。こういったもののためには、同じことと異なることについて照らしあわせて、どちらが本当に整っているのか観てみる。そうすれば、間違った実と名の組み合わせ方によって名を乱すことを禁ずることができる。

 白馬は馬にあらずとかいった理論は、名の使い方に迷って事実を乱すものである。こういったもののためには、名の約束事に照らし合わせて、どちらがこの約束事に忠実であるのか観てみる。そうすれば、間違った名の使い方をして事実を乱すことを禁ずることができる。

 正道を離れてほしいままに作られる邪説や僻言とは、だいたい、この三惑(三つの名に関する迷い)のどれかに分類することができる。だから、明君はその分というものを知って、こういった邪説や僻言の人とは弁論をしない。

 民衆というものは、道によって一つにすることは簡単なことであるのだけど、その事訳を共有して一緒にそれを行うことはできないものである。だから、明君は、これに臨むのには権勢を用いて、これを導くのには道を用いて、これを伸ばすためには命令を用い、これを明らかにするには論を用い、これを禁ずるには刑を用いる。こういったわけで、その民衆が道に感化されること神のようであり、どうして弁論を用いる必要があるだろうか?

 しかし、今や聖王が没して天下が乱れて姦言が起こり、権勢を用いて民衆に臨むべき君子もなく、刑を用いて民衆を禁ずることもできなくなった。だから、弁論を用いるのだ。実際のことが心で了解されなくてそうしてから命名をして、命名しても心で了解されなくてそうしてからお互いの認識していることを確認し、このようにお互いの認識を確認しても心で了解できないなら説明し、説明しても心で了解できないようなら弁論をする。だから、期命弁説というものは、用の大文(実用を飾る大事なもの)であり王業の始めである。

 名が聞かれて実際が心で了解されることが名の実用である。名が重ねられて文を成すのは名の麗である。実と麗がともに備われば、これを名を知ると言う。

 名というものは、実際が異なることをお互いに認識する(期する)ためのものである。辞というものは、異なることと実際との名をあわせて用いることで一つの意味を心で了解させるものである。弁説というものは、実際と名とが違わないようにして、その動静について心で了解させるための方法である。期命(お互いに認識して命名すること)というものは、弁説に実用されるものである。弁説というものは心の道を象るものである。心というものは道の主宰である。道というものは知の経理(すじみちとことわり)である。

 心が道に合していて、説が心に合していて、辞が説に合していて、名が正されてお互いに認識され、そのときの情に基いて心で了解させ、道と異なることを弁じても過ちとなることなく、似たことについて推測しても道理から外れることもない。聴くときは文に合していて、弁ずるときは故を尽くす。

 このような正道によって、姦について弁論するならば、それは墨縄によって曲がっているのか真っ直ぐなのかを判断するようなものである。こういったわけで、邪説が乱立することもなく、百家も隠れるところさえない。

 別々のことも同時に受け入れて聴くだけの明智があっても、それを誇らしげにしている様子がなく、色々なことを同時に受け入れて覆うだけの徳があっても、徳に誇るような顔色がなく、説が行われているときは天下正しく、説の行われていないときは道を明らかにしてその身を隠すというのは、聖人の弁説である。

 詩経 大雅・巻阿篇に「温厚盛大 あの石のように 盤石高大 あの立派な君子は そうして世界の模範となる」とは、このことを言うのである。


まとめ
http://d.hatena.ne.jp/keigossa/20130104/1357283885


解説及び感想

■やはり難しい。何が難しいかと言うと、現代では文章とか弁論とか言葉とか説明とか言ったものは、ほとんど同じものとして分類されているが、これを荀子は、細かく緻密に分類しているからである。