163.荀子 現代語訳 正名篇第二十二 四・五章

四章

 辞譲の節(辞退することと譲ることのけじめ)が得られ、長少の理(年齢の差で生まれる理)は善に従うものとなり、はばかり畏れられるべきことが称されることなく、妖辞(あやしげな言葉)が出されることもなく、仁心によって説き、学心によって聴き、公の心によって弁じられ、衆人の誹謗や称賛に動かされることもなく、観る者の耳目を惑わすことなく、貴人の権勢におもねることもなく、口先だけの人の辞はよしとすることがない。

 だから、道に処して違わずにいられることができ、窮しても奪われることなく利があっても流れず、公正を貴んでつまらない争いを賤しむ。これが士君子の弁説である。詩経に「長い夜はゆるやかに 長き思いは慎み深く 大古を侮ることなく 礼義に誤ることなく どうして人の噂を気にかける必要があろうか」とあるのは、この士君子の弁説のことを言っているのである。


五章

 君子の言葉は、自分と相手との垣根を越える精密さがあり、まわりに合わすかのような人類としての共感があり、それでいて話題ははっきりと分かれていて平坦に整っている。(君子の言は、渉然として精しく、俯然として類あり、差差然として斉う)彼は、その名を正しくして、その辞を適当なものにして、その志義を明らかにしようと務める者である。

 彼の名辞というものは志義(心の奥にある筋道)に使われるものであり、その義が相互に通じることになれば、名辞を使われることもなくなる。そうであるのに、敢えて名辞を用いるのなら、それは姦というものである。

 よって、名は実際を示すのに十分であり、辞が極(中正)を表すのに十分であるのなら、それを捨ててしまう。この規則から外れるものは、難(口を動かすのに不自然な困難を伴うもの)と言って、これは君子が棄てるところであり、愚者が拾って己の宝とするものである。

 だから、愚者の言は、忽然と急に現れるようでしかも粗略、口やかましいだけで共感できず、雑踏のように湧き出ててくる。彼は、その名に誘われて、その辞に眩惑して、その志義に深いということがない者である。だから、苦境に陥って行うのに極まることがなく、甚だ苦労をしても功績がなく、どれだけ貪っても名がない。

 こういったわけで、知者の言というのは、これを心で慮って知り易く、これを行えばそれに安んずることができて、これを持てば自分を立てることができ、その言が成就すれば必ず好むところを得ることとなり、その嫌い憎むべきことに遭遇しないようになるのであるが、愚者はこれと反対のことをする。

 詩経 小雅・何人斯篇に「見えないお化けは 見えないけれど そこにいるのは人だから お顔もしっかりみえますね さあさこの詩を作りしは 見えるあなたをこらしめて 徳のないこと明らかに」とあるのは、このことを言っているのである。

まとめ
http://d.hatena.ne.jp/keigossa/20130104/1357283885


解説及び感想

■正名篇を概略すると、最初に正名を語るに必要な名の定義して(知・能・行・事など)、次に名を制定するとはどういったことかを説明し、乱名と正名について明らかにして、この四・五章で名の使い方について明らかにしている。次の部分は、恐らく荀子のうちでも奥義に値するくらい重要なことが書かれている。前との関係性を明らかにするために、流れをここに記した。