152.荀子 現代語訳 楽論第二十 二〜四章

二章

 声楽の形、ありさまについて。

 太鼓は大きくて多くの音を引きつけ、鐘の音は充実していて、石を叩いてならす木琴のようなケイはきっぱりと正しく、竹管を組み合わせたウショウは和音が取れていて、笛は激しく、低音の笛はゆるやかで大らかであり、瑟の音色はやわらかさがあり、琴の音はおだやかさがあり、歌声は澄んでいて尽くされ、こうして舞の精神は天の道に兼ね集められる。

 太鼓は楽の君主であると言えよう。だから、太鼓は天に似ていて、鐘は地に似て、ケイは水に似て、吹奏楽器は日月星辰に似て、他の打楽器は万物に似ている。

 そうであるならば、舞の精神はどうやって知ることができるだろうか。

 答えて、目でことさらに見ようとするわけでなく、耳でことさらに聞こうとするわけでなく、そうであるのに、屈伸進退緩急が治められていてきっぱりと正しく、筋骨の力を尽くして、太鼓や鐘の節目に合わせて、これに違うことがないのは、多く積まれた思いがねんごろによく行き届いているからである。こうして舞の精神が天の道に兼ね集められていることを知るのである。

三章

 自分は、郷飲酒の礼を観て、王道がおおらかで了解し易いものだと知った。

 まず、主人が、正式な客と、介添えの人とを招いて、他の一般客は皆なこの後に来ることとなる。門外では、主人が賓客と介添えの人とに拝礼してから中に入れ、そのあと一般の客も皆な中に入ってくる。こうして、貴賤を分別すべき道理が明白にされる。

 皆に三回軽くおじぎをしてから建物の階下に来て、三回先を譲ってから正式な客を導いて階上に登り、来た人から拝礼して座席につけ、こうして献ずることと酬いることと辞譲の節(ちょうどよいところ)が盛んになる。介添えの人に関してはこれを省く。他の一般客に関しては、階上に登って盃を受けて座ってこれを祭った上で立ってこれを飲み、主人に返盃はしないで階下に降りる。こうして、隆殺(隆は文理を貴ぶこと、殺は情用を貴ぶこと・禮論六章参照)を弁えるべきことが明らかにされる。

 こうして、楽人が入ってきて詩経の三つの歌を歌うと主人はこの人たちにも酒をすすめる。また次に竹を組み合わせた吹奏楽器であるショウを吹く人が入ってきて、三つの楽曲を奏で終わると主人はこの人たちにも酒をすすめる。そうして、この人達は、楽が全て備わったことを告げて出ていくことになる。

 それから、二人の者に命じて大きな盃をとりあげて、正式な客と主人でこの盃を飲みまわす儀式が始まることを告げて、この儀式の監督者を定める。この段階で、皆が和して楽しんでいても流れてきまりがなくならないことを知ることができる。

 正式な客は主人に酬いて、主人は介添えの人に酬いて、介添えの人は他の一般客に酬いる。それからは、主人側も客側も年齢の順序に従って酬いあい、最後には洗い物をする小者に至って終わる。こうして、年齢や身分の違いを明らかにしながらも全ての人を忘れないということが分かるのである。

 この儀式が終わると、堂を降りて履物を脱いで、それからまた堂に昇って今度は座ってさかずきのやりとりを自由にすることになるが、飲酒の節度は保たれる。朝は朝の儀式をして夕には夕の儀式をして、それをやめることがない。正式な客が出て行くのを主人が見送り、こうして礼の節文(かざりをちょうどよくすること)は遂に全て終わる。こうして、儀式が終わって、安心してくつろいでも乱れないことが分かるのである。

 貴賤が明らかとなり、隆殺が弁えられて、和楽して流れず、長者に仕えても全ての人を忘れることがなく、安心してくつろいでも乱れることがない。この五つのことは身を正して国を安んずるのに十分なことである。国を安くすることができれば天下も安んずることができる。だから、自分は郷飲酒の礼を観て王道が王道がおおらかで了解し易いものだと知ったと言ったのだ。

四章

 乱世の徴候。

 服は華奢で派手、男が女のような格好をして、その習俗は淫らで、普段から利益のことばかり考えていて、行いは粗雑、歌や音楽は耳にうるさく、その文章は邪を秘匿して人目を引くいろどりがあり、養生することにけじめがなく、死を送ることは薄情で、禮義を賤しんで勇力ばかりを貴び、貧しければ盗みをして、富めば賊となって人を傷つける。治世はこれと反対である。


まとめ
http://d.hatena.ne.jp/keigossa/20130104/1357283885


解説及び感想

■三章の儀式は、日本の茶道とかに、だいぶ影響が色濃いように思う。というか、禮というものが、人間共通のものであるから、時代と場所が違っても似た形になるということかもしれない。

■四章については、ほとんど現代に当てはまるというか、昔も、女みたいな恰好をして女性の目を引こうとばかりする輩が居たんだな。と思った。残念だけど、現代は乱世だろう。というか、いつの世も乱世なのかもしれない。