76.荀子 現代語訳 王制第九 十六章-後

 繁栄している日。

 そのときはすなわち、中正が保たれて偏ることなく、縦横無尽に思い通りのことをして、かといって安心した様子で軍隊を動かすことなく、暴国同志がお互いにお互いの国力を削り合うのを観る。

 政治と教育が広く平等に行われて、細かい節度も詳しく明らかにされて守られ、百姓が日々に励み勉めるのならば、これが繁栄している時であり、軍隊の強さはどの国よりも強くなる。

 仁と義が修められて、礼と義が貴ばれ、法則は正され、選ばれた賢良によって百姓が養われるならば、これが繁栄している時であり、名声は天下でこれより高いものはなくなる。

 権力は重くなり、軍隊は強くなり、名声は美しいものとなる。かの堯や舜は、天下を統一した人であるのだけど、この人をもってすら、ここに髪の毛ほどのことを加えることができない。

 権謀術策を弄して人の足を引っ張ることばかり考える人が退けば、賢良知聖の人は自ずからに進むこととなる。刑罰が公平に行われて百姓が和気あいあいとして人々の生活には良識があるならば、軍隊は強くて城は固くて、敵国は戦うまでもなく自ずから屈することとなる。農業がしっかりと行われて財物が積まれ、無駄使いがされることなく、この上で群臣百姓が制度に従って仕事に励むならば、財物が積まれて国家は自ずからに富むこととなる。

 この三つのことが身についているのならば、天下は我らに心服して、暴国の君主も我らに軍隊を差し向けるようなことはしなくなる。なぜなら、彼には戦場に就き従う者がないからである。彼が戦場に就き従わせる者とは、その民のことであるのだけど、この民たちは、あたかも父母に親しむかのようにして我らに親しで喜び、あたかも花の香りを好むように我らを好んで芳しいとする。この反対に、自分の君を顧慮することは、あたかも罪人が受ける刺青を見るかのようであり、親の仇とするのである。仮にも、この民たちの気質が、暴君の桀王や大泥棒の盗跖のようであったとしても、どうして自分が嫌っている者のために、好んでいることを傷つけようとするだろうか。

 このように、彼は既に奪われているのである。だから、古い人には、国を用いて天下を取った者もあるのだけど、これは出向いてこれを行ったのではない。皆から政治を行うことを望まれて、このようにして暴虐の人を誅殺して、横暴を禁じたのである。だから、周公が、南に遠征を行えば、北の国の人がこれを怨んで、どうしてこちらを残してそっちに行ってしまうのか、と嘆き、東に遠征を行えば、西の国の人が怨んで、どうしてこちらを後にするのだ、とわめいたのである。このような状態で、どうしてこの人と戦える者があるだろうか。このようなことを為し得るならば、これが王者である。

 繁栄している日。

 そのときはすなわち、軍隊を静かにして民衆を休ませ、開墾を進めて備蓄庫は満たされ生活も便利になり、役人の募集については能力のある人が慎重に選ばれて、この上で報償を的確に与えることによってこの人達をうまく導き、刑罰を厳しくして犯罪や横暴を防ぎ、士たる人を知る人を選んでこの人に統率を任せる。

 こういったことであるから、よそから煩わされることなく、備蓄と発展に勉めることができて不足がなくなる。軍隊の備品に関しては、彼の暴国は日々にこれを戦場にさらして戦闘によって破壊し、こちらはこれに工夫を加えて手入れを施し、そうしてこれを兵庫に蓄蔵する。財貨や穀物に関しては、彼は日々にこれを戦場に無駄に送って無駄に使用し、こちらはこれを備蓄庫に蓄積して集めるばかりである。才能技術・立派な体格・丈夫な身体・屈強な筋骨の士に関しては、彼は日々にこれらの人を傷つけ挫かせ自分と敵国の仇敵にして、こちらはこの人達を招き寄せて、自分の仲間として朝廷で励むようにする。

 このようにするならば、彼はすなわち、日々に欠落を積んで我は日々に補完を積み、彼は日々に貧窮を積んで我は日々に富を積み、彼は日々に労力ばかりを積んで我らは日々に安心と鋭気を積むことになる。君臣などの上下関係でも、彼は怪しい妖しいとして日々にお互い離れて憎み合い、我は信じて安心して日々にお互い近付いて信愛することとなる。こういった状態で、欠陥と欠落だらけの敵を待つのである。こういったことができるのなら覇者たることができるだろう。

 普段の心持は常識に従い、事業や行事も無難を旨とし、貴賤を定めるのにも当たり障りのない者から選び、その下の百姓には寛容と施恵で接する。このようであるばらば、安存することができるだろう。

 普段の心持は軽薄であり、事業や行事は何でも疑ってかかってためらうばかりであり、貴賤を定めるときには口先ばかりの人から選ばれ、その下の百姓に対しては取ることばかりを考えて侵し奪う。このようであるならば、国の存立自体が危うくなるだろう。

 普段の心持は凶暴残酷で、事業や行事を行えば傾き覆すような危なっかしいことばかり、貴賤を定めるときには何を考えているのかよくわからないような詐欺師のような人から選び、その下の百姓に接するには死力を尽くすことばかりを要求して、この上で百姓の功労など気にも留めず、税金をまくしたてることばかり考えて、本来の仕事である農業のことを忘れる。このようであるなばら、その国はたちまちにして滅亡してしまうであろう。

 この五つのことについてはよくよく考えて選ばなければならない。王・覇・安存・危殆・滅亡の条件を、しっかりと正確に選択することができる人は人を制することができて、これを選択できない人は人から制せられることとなり、善く選び取ることができる者は王者となり、善く選び取れない人は亡びることとなる。王者と亡者と、人を制する人と人から制せられる人との間にある隔たりは、甚だしく遠いものである。


まとめ
http://d.hatena.ne.jp/keigossa/20130104/1357283885


解説及び感想

■王道の素晴らしさがかなり明白になっていると思う。しかし、これらもやはり当たり前のことなのである。あと、これは国だけでなくて、会社でも同じことが言えると思う。特に、この最後の二つの部分に関しては、実際に見ているけど、うなづき、納得する以外の対応ができない。

アメリカは、移民政策からもわかるように、覇道の国だったと言えるだろうと思う。「だった」と過去形にしているのは、ベトナム戦争辺りからここに書かれていることに相反するようなことをしているからである。中国は王者を目指しているみたいだけど、残念ながらその器はない。