75.荀子 現代語訳 王制第九 十六章-前

十六章

 王たるべき条件が備わっていて王者であり、覇たるべき条件が備わっていて覇者であり、なんとか安存する条件が備わっていてなんとか安存することができ、亡びるべき条件が備わっていて亡びるのである。

 万乗の国(戦車万台の大国)であるならば、それだけで威勢が立つのであり、それだけで名声があるのであり、それだけで敵国が屈するだけの理由になる。

 そして、国が安泰なのか危ういのか、善い状態なのか悪い状態なのか、といったことに関する理由や根拠は、ここにあるのであって人にあるわけではない。だから、王・覇・安存・危殆・滅亡の制度たるものは、全て自分にあるのであり、人にあるわけではないのである。

 威勢と強さが隣の国から恐れられるほどでなく、名声も天下に轟いていないのならば、この国はまだ独立することができない。このような状態で、どうやって天下の他の諸国から煩わされることなく居ることができるだろうか。こういったわけであるから、暴国に脅されて言いなりとなり、自分ではやりたくないようなことにも手を貸すこととなり、日々に暴君である桀王と同じ行いをすることとなり、本心でそれを行っていないのであるから、聖王である堯王たることに害はないといえど、これでは名声を高めることもできず、亡びることを存立することに転じて、危険を安泰に覆すことなどできるはずがない。なぜなら、名声を高めて、亡びることを存立することに転じて、危険を安泰に覆すことができるようなときは、必ず繁栄があって楽しみが心中から込み上げてくるようなときであるからである。

 誠に、その国を王者の国たらしめんとすれば王者となることができるのであり、その国が危殆滅亡の所であるならば、危うくなって、殆うくなり、滅亡するのである。


まとめ
http://d.hatena.ne.jp/keigossa/20130104/1357283885


解説及び感想

■これは儒学の基本の考え方であると思う。つまり、自分に起こる結果の原因を自分以外に求めない。例えば、運動会の100m競争でビリケツだったとする。成長しない人間は必ずこう言った言葉を吐く「ああ、一番のあいつは生まれつきの才能がある、二番のあいつも運動神経が良い、三番のあいつは体力がある、四番のあいつは足が長い、五番のあいつには運がある。ところでおれには何もない、だから勝てるはずもないし、あいつらが相手では勝つことはできない」と。だがしかし、これに反して、成長する人間は一言しか言わない「自分の努力が足りなかった」と。自分に起こる結果の原因を自分に求めること、これこそが儒学の基本であると思う。これはとても簡単なことで、とても重要なことなのだけど、実践することはとても難しいことである。なぜなら、自分に全ての原因を求めるということは、まず自分の弱さを認めることであり、次いで、この弱さを克服する努力をするということであるからである。これはとても難しいことだけれど、最も重要なことであると思う。