易の運用

易の基本は、まず八つの象がある。

乾 天 陽・先に立つ
兌 沢 喜び
離 火 文明
震 雷 動く
巽 風 したがう
坎 水 艱難
艮 山 止まる
坤 地 陰・従順

ここには一番一般的な、その象の示すイメージや象徴を書いておいた。

それで、この八つの象をそれぞれ、体の各部位に当てることで、身心の中庸を保つ一助にしようというのが、今日私の書きたいことである。

ちなみに、これは佐藤一済の言志四録にも、同じことがあるのだけど、それを敢えて確認せずに、私の記憶と理論だけで、これらを体の各部位に当てたいと思う。

乾坤は陰陽で基本であるから、体の前面と背面に、または、これらが交えて太極となるのだから、敢えて分けず、体の上下でもいいし、外と内でもいいと思う。とにかくこれは全体的なことを現すものであるから敢えて配置しない。

艮、これは、言志四録にもあるように、そして、艮の卦辞「その背に止まりてその人を見ず」とあるように、背に配置する。あの山のずっしりした感じを背に配置することで、湧き上がる感情を背にとどめる。というイメージ。

震、これは、エネルギー・生気のことである。これも言志四録にあるように、気海丹田に溜めるようにする。だから、体に散じているエネルギーをここ(丹田)に集めるようにする。

坎、これは、思い・精神自体というか、精神と外界からの情報のつなぎ目の部分、敢えて言うなら脳や頭に配置する。このことについては離のときに詳しく述べたい。言志四録にも面は冷にとある。

ここまでの三つが、乾坤を除く八卦を陰陽に割った時の「陽」を示すものである。これらの「陽」が全て、抑えるという、一見「陽」とは逆の働きとして期待されていることに注目していただきたい。乾の用九の卦辞「群竜、かしらなきを見る」ともあるように、陽は節すること、抑えること、隠すことに意義がある。そして、陽を発見した時にそれを抑制すること、これこそが中庸への近道なのである。

離、これは、感官、目や耳などの外からの情報を得る部分に配置する。外からの情報は、明らかに知らなければならず、妄想と言う黒幕を焼きつくす火と、明らかに知るための明が必要なのである。ただし、外から入ってくる情報は時に精神にとってあまりに熱すぎるときがあり、これは水によって冷まさなければならない。だから、先に水をその位置に配置した。

兌、これは、胸に配置する。沢と言うのは、あるだけのものをあるだけ受け入れ、うまく流すものである。だから、虚にすべき胸に、また、全てのものを喜びを持って受け入れるという意味でも兌は胸に配置されるべき様に思う。恐らくだけど、日本の川は、古代シナ的発想からすれば、沢と言われると思う。なぜなら、揚子江などの川は、ほとんど海であって、これ以外の川を見て沢と呼んでいたのなら、日本の川はほとんど沢であるからだ。

巽、これは、四肢に配置する。四肢は末端で、体躯に付き従うものであるからには、風のようになびかせ、無理に動かそうとするのはやめた方が良い。

すると、これら陰は、効用を如何なく発揮させるようにすると良いということになる。

言志四録での確認は、震と艮しかできなかった。四冊の中から探すのはさすがに難しい。

達人の位になると、これらのことを意識しなくても使える状態、もしくは常に使っている状態になっていると思われる。それが、理論を知ってか知らないでかは別として…