易の運用2(超難解)

今日、易の運用について気が付いてしまった。

前、八卦を体の各部位に配したのだけど、それを組み合わせると、まさに易から、いろいろな義がいかんなく理解できてしまえる。

例えば、雷風(丹田から四肢)つまり、丹田に集めたエネルギーを四肢でどのように使うのかという問題では、雷風恒ということになる。だから恒のある使い方がいいということになる。象伝には「雷風は恒なり。君子立ちて方をかえず」というのと合致する。さらに、爻辞でその使い方を検証すると、初(少なすぎる)と「恒をふかくす。凶なり」であり、出すエネルギーが少なすぎては長続きしないということを意味している。次に、二(少ない方の適度)であると、「悔亡ぶ」であり、例えばマラソン選手みたいな使い方であることがわかる。では、五(多い適度)だと「その徳を恒にして貞し。婦人は吉なれど、夫子は凶なり」であり、あくまでも出し過ぎないこと(男性的でないこと・つまり攻撃的な使い方)を旨としていることになる。

まあ、こんな具合で、ほとんど全部の組み合わせに対して、道理に沿ったような暗示が導き出せることが分かった。いちいち全部出しているとキリがないのでもちろんやめておく。

そもそも、これをどうして気が付いたかと言うと、歩き瞑想に出てすぐ、自分の気らしきものが散っている気がしたので、それをまず丹田に集めてみた。手の先から丹田へ、足の先から丹田へ、最後に四肢から丹田へ、そのようにイメージで気を集めてみた。そしたら、四肢はすっきりした感じがしたのだけど、頭はそんな感じがしなかった。そこで、頭に配されている、離火と坎水をなんとかすればよいのだろうと思い、このふたつを並べてみることに気が付いた。つまり、火水未済と水火既済である。火水であるから、感覚を受領するのが外で、考えることが内の状態、つまり何かに接して、それをまだ了承していない状態=未だ済んでいない状態=火水未済であることに気が付いた。これに反して、考えることが受領した感覚を包んでいる状態、つまり何かに接してこれを智恵で解釈した状態=既に済んだ状態=水火既済であることに気が付いた。ここで、「おいおいおいちょっと待てよ。これ全部に当てはまるのではないか」といろいろ思索してみたのだけど、上に書かれているようにまさに義にあてはまっているようにしか思えなかったわけである。

この過程で、震雷をエネルギーとするならば、巽風は力(力はエネルギーを別のエネルギーに媒介する際に発生する概念)ということになる。また、坎水が智恵とするならば離火は識別能力とも言えるものに対応するであろう。坎水と離火は天地人三才で言うと、真ん中の人になるということにも気が付いた。だから、人間にとって重要な識別能力や智恵と言ったものに対応している。そして、艮山と兌沢とは感情に属すものに配されるようである。

乾坤は前回も述べたように、全体的なものである。義として解するときは、乾天なら自分の意志というような感じで、坤地なら自分以外の意志というような感じである。この二つのことは言葉で厳密に表すことは難しい。

これで、周易の易義については、多分半分理解できたことになる。半分と言うのは、自分という意味である。この易義を術として高めれば、秘技とか秘術というものまで発展できそうだけど、それはしないで、私はあくまでこの義の段階で止めたいと思う。「隠れたるをもとめ怪しきを行うは、後世述ぶるあらん。われはこれを為さず」(中庸より抜粋)