荀子 天論 翻訳2

天論 二

 ことさらなことをしていないのにそれが成就し、求めてもいないのにそれが得られる、このような天の運行の働きを天職という。

 その人が、深い思慮をできるからと言っても思慮を加えない、能力が優れているからと言っても手を加えない、洞察に優れているからと言っても察知しない。こういった天に対する態度を、「天と職を争わない」と言う。

 天にはその時があり、地にはその財があり、人にはその治がある。そしてこういったことを能く参であると言う。もしも、この参であることの道理を捨てて、参であろうと思うならば、それは惑いである。
(天とは自然に運行する形なきものである。地とはそこに備わるものである。人とは道を行うものである。こういった道理を理解し、それらの道理と適切に付き合うこと、また、その道理と同時に共にあることを参と言う。天を無理に自分の思うようになんとかしようとしたり、地の限りあるものを無理に自分の思うように増減変化させようとしたり、人の履むべき道理を無視して自分の思うように妄挙することなどは、迷い以外の何者でもない。)

 連なる星たちは相い随って廻り、日と月は互いに照らし合い、四季は代わるがわるその時を御して、陰陽は互いに相い関連して化成し、風雨は広く恩恵を施す。万物はそれぞれその和合を得て生まれて、それぞれその養いを受けて育つ。「天の事」(天の働きそれ自体)は顕わにならないけれども、その「天の功」(天の働きによって起こる現象)は目に見えて現れる。この「天の事」が「天の功」を示す働き、これを神と言う。皆は、この天が成就するものを知るけど、その天自体が無形であることを知らない。そして、これ(この天の不可思議であること)を天功と言う。ただ、聖人と言われる人だけが、天を知ることをことさらに求めないでいることができる。(それは、自然と天を知っているからだ。)


解説
 括弧内に、私の理解できる範囲での意訳、補てんをしておいた。

 ここに言う天に関することが、現在の物理学によって解明されたことと同一であるのかどうかは、測りがたく、その判断が難しいことである。あと、若干理論的に意味のわからないところがある。ひとつは内容が難しいことによって私が理解できていないのだろう。また、私のテキスト(岩波文庫版 荀子)に白文が無いことで、金谷氏の書き下しを尊重しなければならなないこと、また、内容が難しいだけに、現代までに誤植、欠落、蛇足などの不具合が起きていると推測されることもあると思われる。特に私の表記で最後の一段落については、そのことが言える。

 荀子には、こういった言葉を定義するような文章が多い。また、この天に関する観察と説明、特に、最後の「天の働きそれ自体:天職:天の事」と「天の功:天の働きによって起こる現象」と「天功:神:天の働きと天の働きによって現れる現象の間にある関係」を分けているところに荀況の哲学的見地の卓越が見てとれる。こういった思考や哲学的過程は、ヘーゲル弁証法や、概念の概念と同一であると言える。近代西洋哲学の粋とも言える哲学的方法が既にこのときに荀況によって著されているいることはなかなか興味深い。