荀子 天論 翻訳1

天論 一

 天の運行には常(一定不変の理)がある。立派なリーダーがいるからと言って天の理があるわけでなく、暴虐・理不尽のリーダーがいるからと言って天の理が無くなるというわけではない。天の理と照らし合わせて治の道を行えば吉なのであり、天の理と照らし合わせて乱の道を行うと凶なのである。

 何事でも根本をおろそかにせず、節約できることは節約するならば、如何に天とてそれを貧しくすることはできない。食べ物をしっかり食べて休養をしっかりとり、無理をせず適度に運動をするならば、いかに天とてそれを病気にすることはできない。道理に従ってそれと違うことがないならば、いかに天とてそれにわざわいを起こすことはできない。だから、干ばつが起きようともそれを飢えさせることはできなし、寒暑といえどもそれの調子を悪くすることはできないし、妖怪でさえそれに凶事を起こすことはできない。

 根本をおろそかにして、無駄使いをするならば、如何に天とてそれを富ますことはできない。休養もしっかり取らず、いつも無理ばかりしているのならば、如何に天とてそれを健康にしておくことはできない。道理を無視して見当違いのことばかりするならば、如何に天とてこれに吉事を起こすことはできない。だから、干ばつでもないのに飢え、寒暑がひどくもないのに調子を悪くし、妖怪の影すらないのに不吉なことばかりが起こる。

 治まった時代と全く同じ時間が流れているのに、こうした乱れた時代では、わざわいの度合いが治まった時代よりも甚だしいのである。これは天を怨むことではない、道が行われていないことに由るのだ。だから、天と人との関係、天の理と人の行う道との区別をしっかりとして、それを理解している人は至人と言うべきである。


解説
 3.11の原発の事故とか、これの凶事、つまり天の理を無視した方に全く当てはまる。自然を甘く見て、津波への対策を軽んじていたからあのような大事故に発展したのだ。