日本人は弁別ということができない

前々から気になっていたのだけど、多くの日本人が受けてきた教育というものに疑問を感じざるを得ない。

というのも、「集団的自衛権の行使容認」と「戦争をしないこと」は別のことであるからだ。

前にも記事にしたのだけど、私の考えだと「集団的自衛権の容認」は、むしろ戦争の抑止力になる。
http://d.hatena.ne.jp/keigossa/20140708/1404779288

前の記事を読むのがめんどくさい人のために一応簡単に説明するけど、今、日本の近隣で最も戦争の原因となりそうなのは中国である。国力、国体、特に南シナ海での横暴を見れば、これは一目瞭然のことである。明らかにルール違反をしており、ゴリ押し的なやり方、ケンカの発端となりそうなことをしている。

だから、大きな目で見てみれば、日本がフィリピンやタイ、インドネシアなどと軍事同盟をすることによって、中国に対してはかなりの抑止力が働くことになる。今はないのだけど、対中国包囲網である。

この対中国包囲網を形成するためには、「集団的自衛権」が不可欠である。というのも、アメリカなどのように日本より軍事力がある国で、日本が守ってもらう立場ならいざ知らず、東南アジア諸国は、日本よりも軍事力が明らかに弱い。この条件下だと、日本に集団的自衛権が容認されていないと、東南アジア諸国からすれば、事実上、軍事同盟を結ぶメリットがない。なぜなら日本が守る立場だからである。

このように考えてみれば、「集団的自衛権の容認」は、間違いなく「戦争そのもの」への抑止力となる。

それにそもそも、「集団的自衛権」が容認されたとして、戦争をするかしないかは時の政府が決めることであり、「集団的自衛権の容認」という決定があることによって決まるわけでない。

これを例え話にすると、例えば、子供がケンカするという選択肢があっても敢えてケンカをしないのと同じことである。ここでは、この殊勝な子供の判断能力が「ケンカできるけどしない」と判断したということになる。

これをもう一度国家のことに当てはめてみれば、「集団的自衛権が容認」されていても、「戦争するか戦争しないか」は「時の政府の判断」ということなのである。再度言うが、法的にできるかどうかは別として、結局ケンカするかしないかは、ケンカの主体者が決めることである。

だから言うのだ。「集団的自衛権の行使容認」と「戦争をしないこと」は別のことであると。

この部分を全く弁別してない人が世の中にはかなり多くいると思う。

荀子の言葉を借りれば「乱君ありて乱国なく、治法なくして治人あり」(この人が物事を取り仕切れば必ず物事が乱れるという「乱君」は居るのだが、この国は誰が治めても必ず乱れるという「乱国」というものはない。この法律があれば必ず治まるという「治法」はないのであるが、この人が物事を取り仕切ればそのことが必ず治まるという「治人」はいる)である。

だから、この問題で一番考えるべきことは、「乱君」の存在なのである。それが誰なのかは想像にお任せする。

それと少し関連して、私は、今の「集団的自衛権の容認」の決め方は間違っていると断言する。

なぜなら、順序から言えば、「憲法改正」の国民投票が必ず先にあるべきであるからだ。前にも、国会の審議の場で、憲法学者が「集団的自衛権の容認は違憲である」と言ったらしいが、あの条文をどのように読んでも、この憲法学者たちの意見が正しいとしか思えない。

何故に、「乱君」は「憲法改正」に先に手を付けないのだろうか。それとも、国民投票をしたら、「自分たちの未熟さを知っている国民」が、改正には反対という結果を出すと思っているからだろうか。

確かに、公の場で「中国への対策として集団的自衛権の容認をしたい」とは言えないだろう。そんなことを言ったら、本当に戦争が始まるかも知れないから。とはいえ、今のやり方はおかしい。