占いが当たれば何でも解決できる?

占いが好きな人は、ほとんど「当たる占いさえあれば、なんでもうまくいく」と思っている。

つまり、占いというものを、アニメやマンガ、小説に出てくる魔術や、象徴的に言えばドラえもんの四次元ポケットのように思っているのだ。

恐らくこの時点で、占いを好きな人は「こいつ訳のわからないこと言いやがって」と腹を立てるであろう。しかし、そのように腹が立つのは、「自分の深層心理を言い当てられている」からである。占いへの憧れや希望を絶たれ、自分の精神の一支柱が倒れること、のび太ならばドラえもんが居なくなることを恐れて「深層心理で自己防衛本能」が働いているのであろう。「ドラえもんがいなくなっちゃうなんて嘘だ!」と。

まあ、牽制はこのくらいにしておいて、本題に入ろう。

はっきり言っておくが、「当たる占いがあっても苦労しなければ何もうまくいかない」し、「当たる占いがあっても宝くじに当たるわけではない」。

ここを勘違いしてはならない。

われわれの生きている世界には、なぜ、どのようにしてできたのかは分からないが、誰にも覆せない「道理」というものがある。ある人はこれを神と言い、ある人はこれを法と言い、ある人はこれを理と言った。

またこの「道理」に従って生きることを、ある人は敬虔な生き方と言い、ある人は輪廻を断ち切ると言い、ある人は道と言った。

つまり、この「道理」を的確に、また具体的に知ろうとするが占いなのであり、占いとは決して四次元ポケットの使い方を知ることではないし、宝くじの当たり方を知ることではないのだ。

ここを勘違いしてはならない。

例えば、易経には「漸」という考え方がある。漸とは、「漸く(ようやく)」と読むことからも分かるように、「少しずつ進む」「少しずつ変化する」という意味である。

また、「大蓄」という考え方もある。これは「大きく蓄(たくわ)える」と読めること、また、山の下に天があるという象形からも分かるように「我慢してたくわえる」「大きいのに敢えて下に隠れる」という意味である。

この二つの考え方は、「楽してうまくやる」とか、「宝くじを当てる」というのとは正反対の考え方である。

東洋系の占いは、ほとんど易経が元になっているのだけど、その占いの大本(おおもと)の易経にこのようなことが書かれているだ。それらならば、他の占いがこれらの考え方を継承していることは言うまでもないだろう。また、そもそもこういった考え方こそが誰にも覆せない「道理」であるのだ。

だから言うのだ。「当たる占いがあっても全てがうまく行くわけではない」と。

占いは、問題を簡単に解決する魔法ではなく、問題を解決する手段を簡単に示す方法でしかないのだ。その人がうまくいくかどうかは、あくまでもその人自身のことでしかない。成長していく木に肥料をやり、枝を切り、世話することはできても、結局成長するのはその木自身であるのと同じことなのだ。

肥料を壺や開運アイテムと思う人もあるかもしれないが、それも違う。なぜなら、そういったものが身(実)にならないことは明白だからである。壺や開運アイテムを買うくらいなら、身になるおいしい食べ物でも食べた方がいいだろう。盛り塩なども含めてそういったものが有効と成るは、「その人がそれだけそのことに気を使っている」からである。実はこっちの方が肥料として有効なのである。人は、目に見えない道理より、目に見えることをうまく捉えることができる。だから、そういった盛り塩とかいった習慣は良い効果を産むのである。