集団的自衛権も憲法九条も使い方次第

集団的自衛権が未来にどのような影響を及ぼすか、感情論抜きで考えてみたい。

それで、計算結果だけど、「集団的自衛権は日本にとって有利」という結果が導き出された。一応一言だけ付け加えておくと、「使い方を間違えなければ」ということになる。

まず、現段階で、「戦争のない平和な世の中」は実現し得ないだろう。
とはいえ、そういった世の中を目指すことは重要である。世界平和は常に目指さなければならない。

しかし、実際に世の中を見渡してみれば、資本家は搾取を旨としてブラック企業の地位に甘んじ、投資家は社会の成長のためでなく自分の一時的な利益のために投機をして、政治家は立派であるはずの人格とは裏腹に裏帳簿を付け、泣き叫ぶかと思えばわめき散らし、まとまったかと思えば離散して、正義のお面をかぶっては「争い」の火種をまき散らす。

社会の指導者たるべき人たちが、衣食住の充足に満足せず、こんなことばかりしているのだ。
人間の争いがなくなるはずがない。

それにとどまらず、隣国では、他民族が抑圧されてその伝統を失い、国境とルールを公然と犯して利権が貪られ、汚職と賄賂に満ちた指導層が末端の制御もできていない。

隣国がこんな状態で、さらに我が日本も「争いの火種」がなくなる気配がない。

こんな状況では、一世代が交代した三十年後といえども、世界平和が実現されているとは思えない。

日本にもたくさんの「火種」があるのに、隣国は明らかに治まっていないのだ。家族ゲンカが多い家では、鍵の締め忘れが起きやすく空き巣の可能性が高まるように、現在の日本が盗賊の被害に合う確率が高いことは、明々白々である。

それならば、力強い父親が盗賊を追い払って家を守らなければならない。時には隣家と協力することも必要だろう。日本に当てはめれば、日本の指導層と自衛隊が日本を守らなければならない。時には隣国と同盟しなければならない。

盗賊にでも物品を分け与えることのできる慈愛家など、日本中探しても指を折るほども居ないだろう。多くの日本人にその覚悟があるのなら、盗賊にされるままというのも悪くはないと思う。

こういった前提があった上でだけど、「集団的自衛権」は使い方次第では、かなり日本にとって有用なものになる。

具体的にどうゆうことかと言うと、「集団的自衛権」を行使できることになったことによって、日本はフィリピンや、タイ、マレーシア、などの東南アジア諸国と同盟しやすくなったのだ。

現在の日本の同盟国は、アメリカ・インド・オーストラリアということらしい。

集団的自衛権」が行使できない国、こちらを助けてくれない国は、当然に、同盟国の候補とはなりにくい。しかし、「集団的自衛権」が行使できるということなら、対等な条件で同盟国となることもできる。というか、同盟国が増える公算は高まる。

その上で、隣国のアジア政策を見てみれば、「日本が東南アジア諸国と軍事同盟をするかもしれないこと」は、かなり戦争やルール違反の抑止力になるのだ。

この観点からすれば、「集団的自衛権」は、日本の将来に有利に働くことはあっても、不利に働くことはないように思う。

ただし、東南アジアの小国は政情が不安定だし、すぐに同盟をすれば隣国との戦争が本当に始まってしまう契機ともなりかねないから、その辺のタイミングは重要とは思う。

これは、ちょっと無理して「集団的自衛権」の有利な使い方を考えてみた結果だ。
もちろん、悪い方の使い方もある。それはたくさん出ているので敢えてここでは出さない。

また、こうして考えてくると、この荀子の言葉が実に正しいことも分かるだろう。
「乱君ありて乱国なく、治人ありて治法なし」
(この人が君主になれば絶対に国が乱れるという「乱君」はいるが、この国は絶対に乱れるという「乱国」はない。この人が治めれば絶対に治まるという「治人」はいるが、この法があれば絶対に治まるという「治法」はない。何にしてもそれを使う人次第なのだ。)

いかに平和を宣言する憲法九条でも、使う人次第では「乱法・悪法」となり得る。
戦争を促す「集団的自衛権」も使い方次第では「治法・良法」となり得る。
法の文面だけに反応せず、「使い方」をよく考えることこそ重要と思う。