「かばんが盗まれた」

「かばんが盗まれた」

スーパーマーケットに居たぼくは、そんな言葉を耳にした。ぼくは驚いてそちらを見た。すると、80歳前後のおばあさんが、買い物カートの中を覗きこんでいた。

話は前後するけど、このスーパーマーケットは、うちの近所の激安スーパー。どのくらい安いかというと、焼きそば、うどんの生麺が、なんと一玉「9円」。豆腐も一丁「18円」。豚肉も国産が「百グラム75円」。特売じゃなくてもこの値段だ。この安い品だけ見てみると、普通のスーパーの五割〜七割の値段ということになる。

さて、ぼくは、このスーパーに買物に来ていた。そして、ちょうど店内に入ろうとしたとき、このおばあさんとすれ違った。おばあさんは、スーパーの玄関でゴミ袋をかたつけている店員さんに近づいていた。なにか話しているようで、ぼくはてっきり知り合い同志と思っていた。

そしたら、さっきの言葉が聞こえてきたわけだ。

それで、状況から推理してみると、事の顛末はこうゆう具合だと思われる。

おばあさんは、買い物カートに自分のバッグを入れて買い物をしていたらしい。そして、そのカートから少しだけ目を離してしまい、その隙にカバンが無くなったらしいのだ。しかも、かばんは本来、持参の買い物袋の下にあったようで、おばあさんは、その買い物袋をめくり上げていた。

ぼくは、正直なところ、最初におばあさんを見た時、おばあさんこそ怪しいと思った。というのも、明らかにレジを通してない商品をカートに乗せたまま、出入口の一枚目の自動ドアをくぐったからだ。けれど、そこには店の人が居て、その人と話し出したのだから、二人は知り合いなのだと思った。

第一印象はそうだった。けど、事の真相は、さっきぼくが話したとおりだ。

それで、しばらくして、後ろを振り返ってみると、おばあさんは、今度は掃除のおじさんに付き添われて、店内を歩いていた。

ぼくは、おばあさんのことよりも、「本当にスーパーの中に、スリや置き引きがいるのか」ということが気になった。事実、ぼく自身、そういった話は一度も聞いたことがないからだ。けれど、おばあさんのさっきの様子だと、それが嘘だとは思えない。確かにここは激安店だし、貧しい人も多く居るのかもしれない。そうゆう人に出来心ができたのかもしれない。ぼくはそう思った。

それで、今度は逆に、「ここで本当にそんな盗みができるのか」と考えることにした。そうして、辺りを見回してみると、ぼくには、「簡単にバッグを盗める」としか思えなかった。つまり、多くの人が、カートに、ポンとかばんを置いているだけだったからだ。しかも、当たり前のようによそ見しているし、バッグよりも、商品や連れてきた子供ばかりに注意が注がれている。どろぼうになったとしたら、大きなかばんを持って、そこにポイとバッグを入れていけば、数分のうちで、十個くらいのバッグが盗めるように思えた。みんながみんな、盗みに対して無警戒なのだ。

それで、多くの人がこんな無警戒になる理由、それは一つしか無い。つまり、ぼくも含めて、ここにいる人みんなが、スリや置き引きなんて、そもそも居ないと思っているんだ。

こんなことは日本でしかあり得ないと思う。例えば、ヨーロッパで一番治安のいい国は、恐らくドイツだろうけど、ドイツでも、財布をポケットには入れないらしい。つまり、財布をポケットに入れていると、スリにあうからだ。だから必ず、ウエストポーチかバッグを使うらしい。日本で、バッグを持てだの、ウエストポーチを使えだの、そうゆうことを、口酸っぱく言われることがあるだろうか。ぼくはないと思う。

ぼくが思うに、こんな安心して暮らせるのは、世界広しと言っても日本くらいだ。それに、世界だけでなくて、人類史上始まって以来のことかもしれない。しかもこの安心感は、「盗まれないこと」にとどまらない。むしろ「財布を落としても無傷で帰ってくる」ことさえ期待できる。

それで、この「誰もネコババしない」という世の中は、論語の中では、「理想の世の中」の例えとして出てくる。ほとんどあり得ないような治安の良さの例えなのだ。きっと、今の日本は、人類史上始まって以来のユートピア(理想郷)と思う。

そのことを裏付けるかのように、ぼくが店を出ようとしたとき、カートに「自分のかばん」を入れたおばあさんが店員さんにお礼を言っていたのだった。

ちなみに、儒学の理想郷には、盗みを働く人は居ない。なぜなら、盗みというのは、「生活が貧しくて仕方なくすること」だからだ。だから、政治が整っていれば、皆が豊かになって、盗みをする人は居なくなるはずだ。けど、事実がそうじゃないことは、みんなも知ってのとおりだ。今、盗みをする人は、「生活が本当に苦しい人」でなくて、「自分の生活だけを贅沢にしたい人」なのだから…。