192.荀子 現代語訳 大略第二十七 四十二〜四十四

四十二
 義を求める心と、利を求める心とは、両方とも人の有しているものである。堯や舜であっても、民衆の利を欲する心を捨て去らせることはできなかった。けれども、その利を求める心に対して義を求める心の方が勝つようにしたのだ。桀や紂であっても民衆の義を欲する心を捨て去らせることはできなかった。けれども、その義を求める心に対して利を求める心の方が勝つようにしたのだ。だから、義が利に勝つときが治世であり、利が義に勝つ時が乱世なのだ。
 上が義を重んずれば、義が利に勝つことになり、上が利を重んずれば、利が義に勝つこととなる。だから、天子は多い少ないについて語らないし、諸侯は利害について語らないし、大夫は得失について語らないし、士は財貨を儲けることはしない。
 国を所有する君主は牛や羊を飼育せず、贈り物を捧げて臣下となった者は鶏と豚を飼育せず、上卿は屋根が壊れても自分では修理せず、大夫は農場を作らず、士より位の高いものは皆な利を恥じて民衆と商売を争うことはない。分け施すことを楽しんで積み蓄えることを恥じるのだ。こういったわけで民衆が貨財に困ることもなく、貧しい者や寡婦の者もそれなりの努力ができるのだ。

四十三
 文王の誅殺は四回、武王の誅殺は二回、周公はその王の事業を終え、成王や康王に関しては誅殺がなかった。多くの貨財を積んで少ないことを恥じ、民衆の仕事を重くしてできない者を誅殺するのは、これこそ邪な行いが起こる原因であって、刑罰の多い理由である。

四十四
 上が義を好めば、民衆は人目のないところでも自分を飾るようになり、上が富を好めば、民衆は利を求めて殺し合いをする。この二つは治乱の分かれ道である。民衆の間に「富を欲するのか それなら恥を忍べ 危ない道でも通れ そして昔なじみでも捨てよ 義には背を向けて歩くのだ」という言葉がある。上が富を好むと、民衆はこのような行いになってしまう。どうして乱れないままでいられようか。


まとめ
http://d.hatena.ne.jp/keigossa/20130104/1357283885


解説及び感想

■ここでは一貫して利を軽んじて義を重んずべきことを述べている。そのこと自体は、荀子に一貫して書かれていることと同じである。しかし、荀子の主張とは少し違う。なぜなら、荀子は、民衆が利を好む心を否定はしていないからだ。むしろ、その利を求める心を導くべきことを説いている。この部分では、利を求める心を全否定していると思われる表現があるし、四十四の最後に書かれていることに至っては、荀子が批判しているバラマキ政治に他ならない。

■「義の利に克つ者が治世たり、利の義に克つ者が乱世なり」とするならば、現在は完全な乱世ということになる。