史記を読んでいて8

今は、漢の治世時代についての部分を読んでいる。

特に、史記というのは、人物中心の歴史が描かれていて、それが他の歴史書や学校で習うような歴史とはかなり違った趣を呈している。また、このことにより、わかりにくいことがある半面で、わかりやすいこともあるのである。

わかりにくいことは、その当時の政治体制や社会情勢である。なぜなら、人が中心であるがゆえに、その人の視点から政治体制が語られるし、また、その人は、50年くらいは生きているわけであるから、大げさにいえば、秦の始皇帝の治世で青年期を過ごして、劉邦の時代に活躍し、漢の統治下では引退しているとかいう話もあるのであって、当然のように時代ごとの時代背景はかなり読みにくい。

この半面でわかりやすいこともある。それは、処世術や人物いかん、人生教訓のようなものである。

特に、漢の治世下であると、世の中に戦乱という強制力もないことによって、これらの長所と短所がさらに全面的に押し出されてくる。そうして、史記に記された人物伝を読んでいると、人にとっての成功とは一体何なのか?と思われてならないし、一人の人間が善人であるのか悪人であるのか?ということにも簡単に判断をすることができない。

しかし、こういった中にも普遍の真理は潜んでいる。それが「人間は変わりやすい」ということに他ならない。人が善人であるのか悪人であるのか分からないのは、「人間が変わりやすい」ことによって分からないのである。だから、世のため人のため信念のために行動を一貫していた人でも、あるときは、私利私欲保身子孫のためにしか行動をできなくなったり、逆に、私利私欲保身子孫のためにしか動いてなかった人が止むを得ずかどうか、自身をないがしろにすることもある。だから、人間は変わりやすいと言うのだ。

これは仕方のないことである。なぜなら、人というものは、ものごとがうまく運ぶようになれば安心して、安心すれば隙を作り、隙を作れば怠慢となり、怠慢なのにものごともうまく運ぶと傲慢になり、傲慢に陥れば人から怨みを買うのである。とにかく、調子が良い時こそ気をつけなければならない。逆にだからこそ、諫言(自分が調子に乗っているときに自分を注意してくれる人)が大事で、またそういった話をしっかり聴くことが大事なのだと思われてならない。これについては、司馬遷が敢えて読者たちにこのように思わせるような話を挿入して編集しているのかもしれない。しかし、「困った時こそ真の友」と言う。実に困ったときというのは、お金やその他のものに恵まれていないときではない、実に最も困る時というのは、ものごとが全て順調に進みお金や権力がわんさかと入ってくるときであるのだ。こういったときこそが最も困った時なのである。

あと、思うのは、やはりいかに権力や富を手中に収めたからと言って、その人は全く成功していない。なぜなら、少し想像力を働かせて、その人の心中を探ってみれば、その人は、その権力や富を護らんがために常に自身の心を苦しめ、また、権力や富を得んがために常に自分で自分の敵を作り、自分の墓穴を掘っては死ぬ思いをして後でその穴から這い出ているに過ぎないからである。

それならば、富がなくとも、自身の信念に生きた方がはるかに幸せであろう。それに、私の考えでは、俗に言う悪いことをして平然と生きている人間は、地獄と言う確約のない懲罰がなくとも、また後世からの侮辱という辱めがなくとも、既にその時点で心に多大なる苦しみを抱えて、平穏に生きる人に比べてはるかに苦しくて、はるかに貧しい生活を送っているのだと思う。