120.荀子 現代語訳 議兵第十五 二章

二章

 孝成王と臨武君「そうであるならば、また一つ教えて頂きたい。王者の兵には、いかなる道といかなる行を用いることが必要なのか。」

 孫卿子「そもそも、大王(孝成王のこと)にとっては将帥のことなどは末事であるのです。そうでありますれば、私は、王者諸侯の強弱存亡の徴と安危の勢というものについて語らせていただきます。

 君主が賢者であるのなら国は治まり、君主が能力者でないならば国は乱れる。礼を尊び義を貴ぶのなら国は治まり、礼を侮り義を賤しむのなら国は乱れる。そして、治まっている者は強くて乱れる者は弱い。これが強弱の本というものです。

 上位者が仰がれるに足るのならば下位者を用いることもできるが、上位者が仰がれるに足らないならば下位者を用いることはできない。下位者を用いることができれば強くて下位者を用いることができなければ弱い。これが強弱の常というものです。

 礼を尊んで功績が挙げることが上、俸禄を重んじて節操を貴ぶことが次、功績ばかりを挙げようとして節操を賤しむことが下。これが強弱の凡というものです。

 士を好む者は強く、士を好まない者は弱い。
 民衆を愛する者は強く、民衆を愛さない者は弱い。
 政令が信頼できる者は強く、政令が信頼できない者は弱い。
 民衆が斉(平らかに整っていること・統一されている)である者なら強く、民衆が斉でない者は弱い。
 賞が重い者は強く、賞が軽い者は弱い。
 刑罰に権威のある者は強く、刑罰が侮られる者は弱い。
 軍備が十分で整っている者は強く、軍備が不十分で整っていない者は弱い。
 兵をやすやすと用いない者は強く、すぐに兵を用いる者は弱い。
 決定が一つの権力から出る者は強く、決定が二つの権力から出る者は弱い。
 これが強弱の常というものです。

 斉の人は技撃を尊びます。その技というのは、一つ首を得た者に報償金を出して土地などの本賞を出さないというやり方です。これだと、小さい戦で敵が脆弱なときはかりそめに用いることもできましょうが、大きな戦で敵も堅強であるときは兵が散って離れてしまうでしょう。飛ぶ鳥のようなもので傾き覆るのまでに日はないというものです。これは亡国の兵であって、これより兵の弱い者はありません。これでは、市場で日雇いの人を集めて、その人を戦わせることとそれほど変わりありません。

 魏氏の武卒は基準を用いることで選びとっています。三属の重い鎧を着て、十二石の弩を操り、えびらの矢を五十本背負ってさらにその上に矛を置き、兜をかぶって剣を帯びて、三日分の食糧を背負って日中に百里を走り、この試験に合格すれば、その家の税金を軽減して所有地を増やします。これだと、その人が数年して衰えたからと言って、その恩賞を奪うことはできず、改めて試験に合格した者を採用した者に同じ恩賞を与え続けることは困難となってきます。こういったわけですので、いくら領土が広くなっても税収は少ないものとなってしまいます。これは危国の兵というものです。

 秦の人は、その民衆を養うこと窮屈極まりなく、その民衆を使うことは酷烈であります。民衆を威勢で脅かして、威勢で脅していることを隠すために生活を窮屈にして、この不満をそらすために恩賞を使い、逃げる者(どじょう)に対して刑罰を用いて、下位者である民衆が利益を求めようとすると、戦闘に由るより他ないようにして、困窮させておいてから民衆を用い、勝ちを得てから戦功を認めて、戦功と報償をお互いに競わせ、五つの首級で五家を隷属させるようにしています。これが最も皆強くて長続きする方法と言えるもので、領土も広くなり税収も増やすことができます。だから、四世に渡って勝ちが多いのは決して幸運やまぐれというものではなく、数(計算できる当然のこと)であるのです。

 だから、斉の技撃が魏氏の武卒に遭遇してはならず、魏氏の武卒が秦の鋭士に遭遇してはならないのです。そしてさらに、秦の鋭士は斉の桓公や晋の文公の節制に当たることはできず、斉の桓公や晋の文公の節制は夏の湯王や周の武王の仁義と敵対することはできないのです。もしもこの仁義の兵に遭遇するものがあるのならば、火であぶって焦がしたものを石に投げつけるようなものです。

 斉・魏・晋の兵は、全て賞を求めて利益を得るための兵であり、これは雇われ商いの道というものです。上を貴んで制に安んじて節を極める道理は備えられておりません。諸侯のうちでこの微妙な働きを知って節を守れる者が現れるならば、立ちどころにして他の全ての国を危うくすることができるでしょう。

 だから、人を集めて選びとって勢詐を尊んで功利を追いかけているならば、それは民衆を取り敢えず引きとめているだけであり、礼義を致して教化をするのならばこれこそ民衆を斉(ひと)しくするというものです。

 それ故に詐を詐で迎えれば、巧拙の差があって勝つというこもありましょうが、詐によって斉を迎えれば、キリで大山に傷をつけようとするものであり、天下の愚人でなければ敢えてこれをしようとも思わないでしょう。こういったわけで、王者の兵が試されるということすらないのです。湯王や武王が桀王や紂王を誅殺したときは、あごで指図して指を動かすだけで強暴の国すら走り回って命令に従い、桀王や紂王を誅殺すること独夫を誅するのと何ら変わりありませんでした。これ故に、書経の泰誓に独夫の紂王とあるのはこのことを言ったのです。

 つまり、兵とは大斉であるなら天下を制することもでき、小斉であっても隣敵を危うくするのです。人を集めて選び取り勢詐を尊んで功利を追いかけているような兵は、勝つ場合と勝てない場合とがあって、代わる代わるにしぼんだり拡張したり存立したり亡びたりして、お互いに雌雄を決しているに過ぎません。こういったものを盗兵と言って、君子はこの道に由りません。

 だから、斉の田単と楚の荘蹻と秦の衛鞅と燕のボクキとは、世間で言われている善く用兵する者であり、確かに巧拙強弱において普通より優れてはいるものの、その道は同じものであります。まだ和斉には及んでいないのです。詭計を弄して詐を用い権謀術数を駆使しているだけですから盗兵から免れることはできません。斉桓と晋文と楚荘と呉コウリョと越句践とは和斉の兵ではあります。その域に入っていたと言えるでしょう。しかし、まだ本統というものがありません。だから、覇者とはなれても王者とはなれなかった。これが強弱の徴とうものです。」

孝成王と臨武君「善し」


まとめ
http://d.hatena.ne.jp/keigossa/20130104/1357283885


解説及び感想

■今回は長かった。いかに暇と言えど、アマちゃんにはきつい…