109.荀子 現代語訳 君道第十二 五章

五章

 道とは何か。
 道とは君の道である。

 君の道とは何か。
 よく群れを成すことである。

 群れを成すとはどういうことか。
 (養生)人を善く養い生かすことであり、
 (班治)人を善く役割分担することであり、
 (顕設)人を善く役割に任ずることであり、
 (藩飾)人を善く報償や表彰などによって飾り立てることである。

 善く人を養い生かすことができるならば、人はこの人に親しむこととなり、
 善く人を役割分担することができるならば、人はこの人に安心することとなり、
 善く人を役割に任ずることができるならば、人はこの人を楽しむこととなり、
 善く人を報償や表彰などによって飾り立てることができるならば、人はこの人を栄とする。
 この四統が備わっていれば天下もここに帰することとなり、こういったことをよく群れを成すと言うのだ。

 人を養い生かすこともできないなら、人はこの人に親しむことなどなく、
 人を役割分担することもできないなら、人はこの人に安心することもできず、
 人を役割に任ずることもできないなら、人はこの人に楽しむことはできず、
 人を報償や表彰などによって飾り立てることもできないなら、人はこの人を栄とすることもない。
 四統が亡くなれば天下もここを去ることとなり、こうなってしまえばこれは匹夫(一庶民)として何の差支えもない。

 だから言うのだ。道が存するなら国も存し、道が滅びれば国も亡びると。

 (養生)職人や商人を少なくして農夫を多くし、盗賊を禁じてずるいことや邪悪なことを除くのは、これこそ人を養い生かすことの要点である。
 (班治)天子には三公、諸侯には一宰相、大夫は役人を自分の裁量で使って士は役目を保ち、法に度があって公平(上と下、公と私で利害が偏らないこと)であることは、これこそ人を役割分担する要点である。
 (顕設)徳を判断して序列を定めて、能力を測って役目を授け、人が皆自分の仕事を持っていてその仕事をこなして満足するようにして、上賢は三公として、次賢は諸侯として、下賢は士大夫とすることは、これこそ人を役割を任ずることの要点である。
 (藩飾)冠や衣装やそこに施される刺繍や飾りとして身につけるものを修正して、皆に等差があるようにするのは、これこそ人を報償や表彰によって飾り立てることの要点である。

 だから、天子から庶民に至るまで、その能力を発揮して、その志(生涯を通じての目標)を全うして、その仕事に満足しない者がいないのは、これも同じ理由によるのである。衣服は温かくて食べ物は十分で、居れば安心して遊べば楽しく、事は時を失することがなくて制度は明らかで不便がないことは、これもまた同じ理由によるのである。

 かの色を重ねていつも違う衣服を着て、味を重ねて珍味を備えるようなことは、余った所と言うべきものである。聖王はこの余ったものをうまく配分することで違いを明らかにし、上は賢良を飾って貴賤を明らかにして、下は長幼を飾って親疎を明らかにする。

 上は王公の朝廷、下は百姓に家においてでさえ、天下の皆は朝日が昇る時のように明らかに自分の役割を知って他ごとはしなくなり、自分の分限を明らかにして治まることが達成されて、自分の分限に安んずることが万世の世も安んずることを知るのである。

 だから、天子諸侯には、余分な奢侈品への費用はなく、士大夫には欲に流れるような行いはなく、役人たちには怠慢がなく、庶民百姓にはずるい行動や怪しい習俗もなくて盗賊も発生しないのは、それらがあまねくしっかりと義に適っているからなのである。だから、治まっているときは余りは百姓にまでも及び、乱れているときは王公ですら不足する、とあるのはこのことを言ったのである。


まとめ
http://d.hatena.ne.jp/keigossa/20130104/1357283885


解説及び感想

■「群れを成す」とは現在ならば、「社会を形成する」という言葉の方が分かりやすいだろう。しかし、社会を形成することは群れを成す(多くの人が集まること)であるから、それが分かるように、社会を形成するとは訳さなかった。

■君の道、として、君主の道としなかったのは、これは特に現代では、多くの人にあてはまるであろうからである。というか、現代は民主主義であるのだから、君主はわれわれに他ならない。そして、われわれという集合体が君主となって、養生、班治、顕設、藩飾ということを行っているのである。さらに言うなれば、これを行っているシステムこそが、市場資本主義なのである。この私たちの作り出した市場資本主義が、人を養い生かし、人の役割を作り、人に仕事を任じて、人にそれ相応の名声や報償を与えているのである。