108.荀子 現代語訳 君道第十二 四章

四章

 国を治めるということについて教えてください。
 身を修めるということについては聞いたことがあるが、未だかつて国を治めることについて聞いたことがない。君主なる者は手本であり、民衆はその影に過ぎない。手本が正しければ影も正しくなる。君主なる者は器であり、民衆なる者は水に過ぎない。器が円ければ水も円くなる。君主が弓を好めば臣下は指に弓がけを付けるようになる。楚の荘王はほっそりした人を好んだのだのだが、この故に朝廷には飢餓者が出るほどとなった。だから、身を修めるということについては聞いたことがあるが、未だかつて国を修めることについては聞いたことがないと言ったのだ。

 君主なる者は民衆の源である。源が清くなれば流れも清くなり、源が濁れば流れも濁る。だから、お社を持っている者で、民衆を愛することができず民衆を利することもできていないのに、この上で民衆が自分を親愛することを求めても、これは無理な話というものである。民衆が自分のことを親しんでもなく愛してもいないのに、この上で自分のために働いて自分のために死ぬことを求めても、これは無理な話というものである。民衆が自分のために働くこともなく自分のために死ぬこともないのに、この上で兵が強く城が固いことを求めても、これは無理な話と言うものである。兵が強いわけでなく城も固いというわけでないのに、この上で敵が来ないことを求めても、これは無理な話というものである。敵が来るのに、この上で危うい立場になって領地が削られることなく滅亡しないことを望んだとしても、これは無理な話というものである。危削滅亡の人情とその根本原因をみなここに積みながら、この上で安楽であることを求めるならば、これは狂った生き方というものである。狂った生き方をしている者とは、現実の事実を見ないで楽しんでいるのである。

 だから、君主は、強固安楽でありたいと思えば民衆について反省してそれを見出すことに及ぶことはなく、下を随順させて民衆を一つにしたいと思えば政治について反省してそれを見出すことに及ぶことはなく、政治を修めて習俗を美しくしたいと思えばそれをできる人を求めることに及ぶことはないのである。

 かの修養学問を積んで、それをできる人は、この世で絶えたことがない。そして、その人とは今の世に生まれて古の道に志し、天下の王公でさえもこれを好むことがないのに独りその人がこれを好み、天下の民衆でさえもしたいと思わないことであるのに独りその人がこれを実行して、これを好む者は貧しくなりこれを実行する者は行き詰るのにそれでも独りこの人だけがこれを実行しようとし、少しの間もこれをやめようとはしない。朝日が地上を照らすように、独りその人が先王が得た理由と先王が失った理由を明らかにして、国の安危良否を知ることは黒と白を分けるかのようである。この人こそが聖人である。

 この人に大任することができれば天下も一つとなって諸侯も臣下となり、この人に小任しただけでもその威勢は隣の敵国に届くに十分となり、たとえ、この人を用いることがなかったとしても、この人が国境から出ないようにするならばこの人が死ぬまでその国はこと無きを得ることができる。

 こういったわけであるから、人に君主たる者が、民衆を愛することができれば安心することができ、士を好むのならば栄えることとなり、両者のどちらもできないならば亡ぶこととなる。詩経 大雅・板篇に「修まった人は 守りなり 民衆たちは 垣根なり」とあるのはこのことを言ったのである。


まとめ
http://d.hatena.ne.jp/keigossa/20130104/1357283885


解説及び感想

荀子論法が全開にされている。具体的には、因果関係の積み重ねのことで、君主が修身していないなら国は滅亡するということを、その中間のことを明らかにすることで反駁不可能としている。

■聖人についての、「独りその人が」というところでは、いつの時代でもそんなものなのだろうと思った…、この人に全てを任せれば全てうまく行く、という人は、必ず居るものである。しかし、この人がそれを任されない、なんとも不合理なところが世の中なのであろう…