大空の戦い2

今日、たまたま大空での戦いに出くわした。

この戦いに立ちあうのは今回で二度目であるから、2という数字がついている。1の方を読んでもらってから、今回の2を読んでもらった方がより興味深く話を読んでいただけると思う。

大空の戦い1
http://d.hatena.ne.jp/keigossa/20120702/1341221330

この大空での戦い1では、とんびらしき猛禽類が守り、カラスが攻めであったのだけど、今回は攻守が逆転していた。

いつものように、歩き瞑想をしていた。そしたら、今日も、例の目が青く見える優雅なシロサギさんに出会った。どうも、このシロサギさんは私の方に何らかの興味を抱いているらしい。というのも、私は同じ道を往復しているのだけど、行きの時は、このシロサギさんが、20mまで近付いた私を確認すると、すぐに、少し下の川から飛び出て、私から大きく離れて行ったのであるが、帰りの時は、私がシロサギさんのいるところに近付くと、わざわざ下の川から飛び出て、私と同じ高さの道路に降り立ち、そのまま、私が5mに近付くまでそこで待っていたのである。そして、その距離まで近づくと、川に戻るのでなくて、川と反対側にある田んぼの中に私の進行方向とは直角方向に移動したのである。そういえば、今までもこうやって私を避けていた。これは、明らかにこちらを見るための行動のように思える。

と、少しシロサギさんの話に没頭して、戦いからは話が逸れてしまったのだけど、このシロサギさんとの二度目の遭遇の直後くらいに、今度はカラスくんが一羽、私の前で何かをついばんでいた。カラスくんたちは、そもそもふてぶてしいから、かなり近距離まで近付いてもなかなか逃げない。ところで、このカラスくんは、普通のカラスよりも喉がふくらんでいて、髪型もモヒカンぽい感じという特徴があった。このカラスくんは、かなり近距離よりさらに近距離まで逃げなかった。大体2mくらいまで接近したと思う。「あれ、なかなか逃げないな」と思ったそのとき、このカラスくんは、「アホー、アホー」と私を馬鹿にするように、その自慢ののどを鳴らしてさっきのシロサギさんと同じような進路をとった。「ふてぶてしいやつめ」と、含み笑いをして淡々と歩き瞑想に戻ったのだけど、なんか様子がおかしい。まず、このモヒカラスくんが、私から相当離れたのにまだその自慢ののどを鳴らすのをやめない。さらに、後ろでもなんか騒がしい気配がする。

こういったわけで、後ろを振り返ってみると、今度は、すらっとした普通のカラスさんが口に白いものを咥えて、とんびから逃げていたのだ。普通のカラスさんのくちばしからはみ出るくらいだから、十センチ四方かそれより少し大きいくらいの、はんぺんみたいな白いものをカラスさんは咥えていた。

どうも、とんびはこの獲物を横取りしようと、このカラスさんに圧迫を加えていたようである。この「圧迫を加えていた」という表現は、実に状況を的確に伝えんがための表現である。というのも、このとんびの戦法は、このようなものだったからである。つまり、このカラスさんの10センチほど下にピッタリとついて飛んで、特に攻撃を加えようというわけでなく、とにかく、この獲物を咥えたカラスさんに近付くことを主眼としていたのだ。

大空の戦い1でも明らかなように、とんびの方が高いところを飛べるわけであるから、とんびとしてはカラスさんより下を飛んでいた方が有利になる。というのも、カラスさんがとんびに押されて上に行けば行くほど、自由に飛び回るということにおいて、とんびはどんどん有利になるからだ。

しかし、実はそれだけではない。というか、この大空の戦い1に引きずられた、このとんびの戦法への分析はむしろ間違いなのである。つまり、とんびは、このカラスさんに、プレッシャーを与えていたのである。もちろん、このプレッシャーのうちには高い位置に移動させることもあっただろう。しかし、とんびの本当の目的は、このように圧迫されたカラスさんがひるんで、その獲物を下に落とすことだったのだ。このようにして獲物が下に落ちた時、上に居る者と下に居る者で、どちらが早く獲物を取ることができるだろう。その結果は言うまでもないことと思う。

こういった戦いを、足を止めてしばらく見ていたのだけど、カラスさんの防御も相当にすごかった。というのも、柳の木の枝が密集している部分に降り立ったのである。とんびは高いところも飛べるだろうし、カラスさんより速くも飛べるだろうけど、それは大きな翼が有るがためであり、この大きな翼は密集した枝の中では邪魔なものでしかないのである。

カラスさんは一度、柳の枝の中に降り立ったのだけど、一回目に降り立った場所はとんびでもがんばれば侵入できる場所だったらしく、すぐにもう一度飛び立った。そうして、少しの間とんびの圧迫を受けて、今度はまた別の柳の枝にとまった。ここはとんびでは絶対に入れない場所だったらしく、とんびは春にしてはそこそこ強い風を受けて、この柳の上にたこのように滞空していた。モヒカラスくんは相変わらず自慢ののどをならしている。私は、とりあえず時間のこともあるし、勝負あったなと思ったので、ここを立ち去ることにした。

するとそのとき、シロサギさんは、この騒々しさがうっとおしかったのか、私のはるか後方、この戦いの現場よりもさらに後ろの川の中から飛び出し、私の上を滑空し、私の真上を通過して、電柱のてっぺんに優雅に降り立ったのであった。そこで片足を上げるシロサギさんの姿は優雅そのものだった。

これらは全部事実であるから、シロサギさんとかモヒカラスくんとかの登場は、私の込める深い意味があるものではない。ただ、カラスさんは、その安住の地でもこの獲物を食べようとしていなかった。その獲物が何かビニールや紙に包まれていたのかもしれないけど、それだけではないと思う。食べれるときに食べないということは、それをどこかに持って行くつもりであったということであり、モヒカラスくんがそこから離れなかったのは、カラスさんのことが気がかりであったからであると思う。

荀子には、「姦人なるもの、心は虎狼の如く、行いは禽獣の如くなるに、しかも己の修まるとされるを望み」とあるけれど、禽獣の行動を観察していると、悪人という人間が禽獣と同等にされることは、禽獣にとってさえ不名誉なことであると思われてならない。彼ら禽獣は、今必要な分だけしかとらないのに、悪人と言う人間は、必要な分があって、さらに不必要な分があるのに、さらにこの上で不正を犯して不必要なものを貪るのである。野蛮を通り越して、下劣であることこの上なく、畜生にも劣るとはまさにこのことと思う。

おわり